2011年12月30日金曜日

ハードウェアとソフトウェア

■2011/12/30
■ヨハン早稲田キリスト教会 聖会
■マタイ 6:25-34、箴言 29:18、コロサイ 5:12-17

悔い改めについて、悔い改めの実りが結ぶまでは悔い改めではありません。
イエス様の最初のメッセージは悔い改めから始まっています。
何か過ちをしたときに、「すいません」とただ謝るだけでなく、実際に言葉が行動が生活が変わることが真の悔い改めになります。

この世で最も不幸なのは孤独を楽しむ人たちです。
何かあったときに一人になりたいと望む人は多いですが、一人になったらますます罪の道に走りかねません。 兄弟姉妹の交わりの中でかえって罪を犯すことから守られることがあります。よく集まって祈り励まし合いましょう。

私たちのビジョンは宣教、訓練、賛美です。
日本でもリバイバルが何度かありましたが、聖書を徹底的に教えることをしなかったために、途中で終わってしまいました。

マタイ 6:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

この地上で主の国を作ることが重要です。神の国とは教会であり、たとえるならば教会はハードウェアです。神の義はそこに集う人格化された聖徒たちであり、たとえるならばソフトウェアです。ハードウェアの教会とソフトウェアの聖徒たちを求めるとき主の喜びとなります。

★ハットポイント
「神の国と神の義」についてはなんとなく聞いてきましたが、ハードウェアとソフトウェアというメッセージを聞いて、コンピュータ専門の私には非常にわかりやすく理解できました。
ハードウェアとソフトウェアには組み合わせがあります。たとえば、Intel CPU上で動作するOSは、Windows、Linuxというように。教会と信徒も同じなのかもしれません。
宣教、訓練、賛美をビジョンとするヨハン早稲田キリスト教会には、そのビジョンに同感し祈り行動していく信徒たちが必要になります。私もそのような信徒になりたいと決意しました。
■2011/12/30
■ヨハン早稲田キリスト教会 MorningChapel
■詩篇 119:145-160

一人一人が奇跡を起こす主人公です。
私たちはパウロの始まりよりも良い立場にいます。パウロはクリスチャンを徹底的に迫害していたわけですが、私たちのほとんどはそこまでのことはしていないからです。
命をかけて行うとき主が与えて下さるように信じます。

詩篇119:145 心を尽くして呼び求めます。主よ、わたしに答えてください。わたしはあなたの掟を守ります。119:146 あなたを呼びます、お救いください。わたしはあなたの定めを守ります。

何かしてくれたら掟を守りますという条件を述べているのではなく、主の掟を守る喜びを体験したいという告白です。

イエス様も夜通し祈られましたが、夜通し祈るときは、朝4~5時くらいに答えられることが多いです。

2011年12月25日日曜日

クリスマスの意味

■2011/12/25
■ヨハン早稲田キリスト教会 ゴスペルナイト
■ルカ 2:8-14

クリスマスは福音の喜びを人々に伝えるものです。
人類最大の問題は「死」であり、それに対する怖れがあります。
死刑囚にとって無期懲役になっても死を免れるほど嬉しいことはありません。
イエス・キリストの誕生とともにもたらされた福音は、私たちをこの死の問題から解放し、永遠の命を与えて下さいます。

★補足(別の講義から)
死には次の三段階があります。
1. 霊的な死→神様との関係が切れること。
2. 肉体の死
3. 永遠の死→地獄の裁き
この世で生きている間は、これらの死は執行猶予されていますが、肉体が死ぬと確定します。

2011年12月22日木曜日

祈れない時に読む詩篇

■2011/12/22
■ヨハン早稲田キリスト教会 MorningChapel
■詩篇 119:17-32

クリスチャンにとって祈ることはとても日常的で生き生きとした信仰生活に必要なことですが、疲れていたり落ち込んでいたりして祈れない時もあります。いくら祈ろうとしても祈る言葉が出てこない、そんなことがありますが、そのような時には聖書を読むこと、とりわけ詩篇を読むことがお勧めです。
詩篇にはダビデをはじめとした作者の切なる祈りが刻まれているからです。

★ハットポイント
あまり祈りの言葉が出ないのに、むやみやたらに祈ろうとして恵まれないこともありますが、そんな時は詩篇を読むといいのですね、御言葉を読んで口ずさむとき、それ自体が祈りになると信じます。

2011年12月21日水曜日

御言葉どおりに道を保つこと

■2011/12/21
■ヨハン早稲田キリスト教会 MorningChapel
■詩篇 119:1-16

詩篇119:9 どのようにして、若者は/歩む道を清めるべきでしょうか。あなたの御言葉どおりに道を保つことです。

言葉どおりに道を保つことが人生の幸せにつながる秘訣です。しかし、人は自分で真っ直ぐ歩むことは難しいです。主の助けが必要です。

★QT
若いうちは力があり自分のやりたいことに時間と力を注ぎたくなりますが、まず自分の歩む道を清めることに力を配りなさいということですね。強弱や物事の可・不可などがこの世の人の見方ですが、クリスチャンは、清いか汚れているかという観点が必要です。

2011年12月18日日曜日

映画を見て病気が治る

■2011/12/18
■ヨハン早稲田キリスト教会 主日1部礼拝
■ルカによる福音書 1:26-38

 1:30 すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。
 1:31 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。
 1:32 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。
 1:33 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」

マリアがイエス様を身ごもることを伝えられる場面です。
ユダヤ人の結婚の過程は三段階あります。
まず最初に両者の両親が、本人たちが子供のときに将来結婚することを約束します。二番目として、結婚の約1年前に婚約をしますが、それはほぼ結婚と同義くらいにみなされ、解消するときは離婚届けが必要ですし、その間に他の異性と関われば姦淫罪になります。三番目に実際に結婚します。
マリアはこの二番目の段階にいてイエス様を身ごもりましたので、難しい立場にいましたが、信仰をもってイエス様を自分が身ごもることを受け入れました。

イエス様の誕生は、信仰を持つ者には吉報ですが、そうでない者には悪報にもなりました。天使ガブリエルはイエス・キリストの誕生の喜びを伝えるために来たのですが、それを聞いたヘロデ王は新たな王が生まれて自分の地位を奪われるのではないかと考え恐れました。
私たちも同じところがあるのではないでしょうか。イエス・キリストを信じているものの、イエス・キリストにより自分の何かが奪われるのではと考えてしまうところがあります。キリストを受け入れながらも、心の王座には自分がいるのです。

幸福と祝福には違いがあります。
幸福は自分の力でつかみとるものです。幸福の科学というものもありますが、いろいろと研究し分析し努力して得ようとします。しかし私たちは罪人なので結局、幸福をつかみとることができません。
一方、祝福は信じる者すべてに無償で与えられるものです。

エフェソ 2:8 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。2:9 行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。

私たちはその祝福に対して冷笑的な態度をとることがあります。代表例が創世記に出てくるアブラバルの妻サラです。サラは主から子供を身ごもると伝えられて信じられず冷笑的に笑いました。

創世記 18:12 サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである。

この態度は高慢さから来ます。自分の経験、知識のほうが神より優れていると考える高慢さです。サラのようではなく、素直に受け入れたマリアのようになりましょう。

信仰については面白い話があります。「Jesus」という映画がありまして、世界43億人以上の人々が見ており、世界約810ヶ国以上の言語に訳されている映画です。この映画をアフリカ等の発展途上国の人たちが見たとき、次々と奇跡が起こりました。彼らは、映画やそれらの機材を見るのが初めてであったため、スクリーンに映っている映像が、目の前で本当に起こっていることだと信じで疑わなかったのです。目の前で、目の見えない人が見えるようになり、足の不自由な人が歩けるようになる場面を見て、この映画を見に来た病人たちが次々と癒されました。目の前の映像を謙遜に受け止めて、信仰で受け入れたので、本当に癒されたのです。
これがもし私たち日本人であったならどうでしょうか。なかなか良くできている作品だとか、この映像は技巧的だとか、癒されるシーンをうまく作っているなどと考察をめぐらして、その映画の中で起こっている事実をまともに受け止めようとはしないのではないでしょうか。

★ハットポイント
幸福と祝福の違いがよくわかりました。「幸せは歩いて来ない、だから歩いていくんだね」なんていう歌もありますが、確かに幸福は追求しないと得られないものですね。しかし、祝福は信じるだけで誰にも与えられる素晴らしいものなのです。ただ、「無料ほど高いものはない」などという感覚がある私たち日本人にはなかなか受け入れがたいところがあるのでしょうか。

もう一つ、アフリカの方々が映画を見て病気が癒されたのは驚きです。本当に起こっていると信じるならば、その場で癒されてしまうんですね。信仰とは素晴らしい!科学技術が発展してあまりにもいろいろなものを見すぎている日本人がかえって信仰を持てないのは、何かずしりとくるものがあります。

2011年12月10日土曜日

「何事もなく無事でした」が最もまずい

■2011/12/10
■ヨハン早稲田キリスト教会 土曜礼拝
■使徒言行録 4:23-31

日本では目に見える科学技術や商売に対する関心や実力は非常に高いですが、目に見えない霊的なことに関しては非常に関心が低いです。
石原都知事もあるとき「今の日本人が持っているのは「我欲」だけ。金銭欲、物欲、性欲です。」と仰っていましたが、まさに今の日本にあるのは、このような目に見える欲望だけではないでしょうか。

しかし、目に見えるものには限界がありやがて過ぎ去ります。
太宰治は「大人とは裏切られた青年の姿が」と表現して、若くして自殺しました。他にも自殺した文学者は数多くいます。

使徒 4:24 これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った。「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です。」
クリスチャンは目に見えない神様を見上げる者であり、これがクリスチャンの告白です。

今の日本人は失望を恐れて挑戦することが少ないです。若者でも希望を持っていません。
困難な状況のほうが主が備えられます。
良く耳にする「無事に終わった」という言葉がもっともまずいのです。言い換えれば何の実りもなかったことになります。

世の中の働きはやった分だけ結果が出ます。仕事はやればやるほど給料も出るし経験や実力もついていきます。ところが主の働きは違います。心のこめ方、心の姿勢に比例して結果が出ます。たくさんやれば良いものではなく、少ない時間でも真心をこめてやれば主が結果を出してくださいます。

米俳優のジェームズ・ディーンは24歳で事故で亡くなってしまいましたが、このような言葉を残しました。「永遠の命と思って夢を持ち、今日限りの命と思って心尽くして生きる。」

★ハットポイント
日常生活で、特に仕事でも、「何事もなく無事で良かった」という言葉を良く聴きますし、それに慣れてしまっている感じがしますが、それがもっともまずいと聞いて、ひっくり返されました。
確かに、仕事で、今日のプレゼンは何事もなく無事だったと言ったら、とりあえず成功したように思われますが、逆に何もお客様が感動した点もなく次につながらないです。若干ハプニングがあっても一つでも何か印象を持っていただけたほうが良いわけですね。
無事な人生でなく、四つの法則にもあるように、「大いなる冒険の生涯」に期待しましょう。

2011年12月4日日曜日

人生を決めるのは考え方

■2011/12/04
■ヨハン早稲田キリスト教会 主日礼拝
■タイトル: 主をあがめよ
■コロサイ コリント二 4:8-10、16-18

人生を決めるものは何でしょうか?背景、状況、環境が人生を決めるのではありません。考え方が人生を決めるのです。基本的に人生は困難が伴います。心理療法に詳しいスコット・ペックはある本の冒頭で「人生は困難である」と述べています。困難である人生が私たちをいつも不安に突き落とします。

一つ面白い話があります。あるとき、50代の男性が70代の母親に向かって、教会に行きたくないと不平を言いました。その母親は教会に行く次の三つの理由を話しました。
1. 眠くても祝福してくれるから
2. 子供たちの模範となるために
3. 担任牧師だから
果たしてこれで良いのでしょうか?「担任牧師だから」はまさかと思って笑えそうですが、涙が出てきます。牧師でもたまに教会に行きたくなくなるときがあるからです。一般信徒でも同じではないでしょうか?

コリント二 4:8-9 わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。

正しい考え方を持っていれば全面的に打ち勝てます。何度倒れれも立ち直ることができます。それは目に見えないものを見ているからです。正しい見方として三つあります。

一つ目は、問題や苦しみを見るのではなく、解決してくれる主を見ます。
創世記 50:20 あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。
ヨセフはエジプトでの奴隷生活という困難な状況の中で慈しみの神様が見えました。

二つ目は、神様の偉大さに目を向けることです。人生は計画した通りにいきません。例えば、息子が楽しみにしていた映画に一緒に見にいこうとして買ったチケットが間違っていて映画を見られず息子を落胆させたという経験があります。そのときは明らかに失敗を感じます。しかし、失敗したからといってそれで終わったのではなく、チャンスは何度でもありやり直せるのです。フットボール前半戦で間違って自分のチームのほうのゴールに向かって走ってしまいチームに迷惑をかけた選手は、休憩時間中にもう皆に見せる顔がないと言ってふさぎこみましたが、コーチは「立って行け!まだ半分しか終わっていないんだから」と言いました。そう、人生は常にまだ残りがあり、やり直せるのです。自分ができないことを見るのではなく、主ができることを見ます。

三つ目は神様の近さに目を向けることです。神様が遠くにいるように感じられることはあるでしょうか?ときにあるでしょうが、主は臨在しておられます。主はいついかなる時でも共にいらっしゃいます。私たちの心の暗さがあまりにも深くても、神様はもっと深いです。

2011年12月2日金曜日

主の名のために

■2011/12/02
■QT
■エゼキエル 20:1-9

エゼキエル 20:9 しかし、わたしはわが名のために、彼らがその中に住んでいる諸国民の目の前では、わが名を汚すことがないようにした。その諸国民の目の前で、わたしはイスラエルをエジプトの地から導き出して、わたしを示したのである。

★考察
主がイスラエルの民をエジプトより導き出したのは、イスラエルの民が何か偉いとか資格があったからではなく、全知全能なる主の名がエジプト人らに汚されないようにするためでした。

★適用
私たちが救われたのは、この豊かな日本で生まれたのは、私が何か優れたいたわけではなく、主の名が高められるためです。そのために主は何者でもない私を用いて下さっているのです。そのことをいつも忘れずに生活していかなければいけません。