2012年3月30日金曜日

裏切り、悔い改め

■2012/3/30
■ヨハン教会 QT
■ルカ 22:1-13

★考察
この箇所を読むといつも複雑な気持ちになります。イエス様の最も身近な12弟子からイエス様を裏切る者が現れるのです。3年半共に生活したくさんのことを教えてきた弟子に裏切られるイエス様の心情はどんなものなのでしょう。イエス様はユダを弟子にしたときユダが裏切ることを知っていたのでしょうか?それとも知らなかったのでしょうか?私にははっきりとわかりませんが、おそらく知っていたけれど悔い改めてくれることを最後まで望んでいた、でも自分が裏切られて十字架につけられなければ、人々の罪が赦されないこともわかっていた、そんな複雑な気持ちでしょうか。
ユダの行動が不可解であり可愛そうでもあります。わずか銀貨30枚、今でいれば30万円くらいで、世界で最も注目されしかも自分の先生であったイエス様を売ったのです。3億円くらいなら一生生きていけますが、わずか30万円です。奴隷でさえもっと高価で取引されたでしょう。22:3には「イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。」とあります。サタンが彼の中に入って惑わしてしまいました。なぜそんなことになるのでしょう?サタンは我々の一瞬のスキを狙います。心の中の悪いものを取り除いたとしても、聖霊で満たされていなければ、やがてサタンに侵入され巣窟になってしまいます。
ユダは裏切ったあと後悔するだけでなく悔い改めればきっとイエス様から許してもらえたと思いますが、残念ながら後悔しただけで終わり自殺してしまいました。「反省だけなら猿でもできる」などというCMか何かがありましたが、まさに反省では何も意味がありません。本当に心から変わらなければいけません。

★ハットポイント

★御言葉
◆イエスを殺す計略
22:1 さて、過越祭と言われている除酵祭が近づいていた。
22:2 祭司長たちや律法学者たちは、イエスを殺すにはどうしたらよいかと考えていた。彼らは民衆を恐れていたのである。
22:3 しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。
22:4 ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた。
22:5 彼らは喜び、ユダに金を与えることに決めた。
22:6 ユダは承諾して、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。
◆過越の食事を準備させる
22:7 過越の小羊を屠るべき除酵祭の日が来た。
22:8 イエスはペトロとヨハネとを使いに出そうとして、「行って過越の食事ができるように準備しなさい」と言われた。
22:9 二人が、「どこに用意いたしましょうか」と言うと、
22:10 イエスは言われた。「都に入ると、水がめを運んでいる男に出会う。その人が入る家までついて行き、
22:11 家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をする部屋はどこか」とあなたに言っています。』
22:12 すると、席の整った二階の広間を見せてくれるから、そこに準備をしておきなさい。」
22:13 二人が行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。

2012年3月27日火曜日

聖書の真実性、迫害は宣教のチャンス

■2012/3/27
■ヨハン早稲田キリスト教会 MorningChapel
■ルカ 21:5-19

迫害が起こったとき、ローマは神殿に火を放ち神殿の金箔が溶けて大理石の中に入ってしまいました。その金箔を取り出すために大理石をすべて取り除きました。まさに聖書に書かれていることがそのまま起こりました。聖書の一点一画もおろそかにしてはいけません。それは真実であり、主が言われたことは必ず実現します。

そのような迫害の中で私たちはどうすべきなのでしょうか?迫害を受けた時は大きな伝道のチャンスとなります。どのように弁明するべきか、何をどうすべきかと怖れあたふたしてはいけません。語るべきこと、すべきことは主が与えて下さいます。大胆に福音を伝えるものとなりましょう。

★ハットポイント
確かに過去のキリスト教の歴史を見ますと、大きな迫害をされたときに偉大な証があって皆を感動させリバイバルが起こりました。自分の息子を殺した青年を自分の養子にした韓国の孫良源牧師、公安に何度も迫害され刑務所と骨と皮になりながらも大胆に福音を語った中国のユン兄弟、あらゆる迫害でも屈せず中国宣教を全うしたハドソン・テーラーなど、現代でも迫害の中でたくさんの証が生まれています。イエス様ご自身がまさに十字架の迫害を受けながらも全世界の人々を救い希望となりました。
迫害とまでいかなくても自分がイエス様を信じていることや教会に行っていることで誰かから非難されると何か弁明の言葉ばかり考えてしまいがちですが、人間的な弁明の言葉をあれこれ考えるよりも、祈りの中で大胆な御言葉と知恵をいただくようになりたいです。

★御言葉
◆神殿の崩壊を予告する
21:5 ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。
21:6 「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」
◆終末の徴
21:7 そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」
21:8 イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。
21:9 戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」
21:10 そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。
21:11 そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。
21:12 しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。
21:13 それはあなたがたにとって証しをする機会となる。
21:14 だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。
21:15 どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。
21:16 あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。
21:17 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。
21:18 しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。
21:19 忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」

2012年3月24日土曜日

『わが父、孫 良源』を読んで

※(前略)
注:『わが父、孫 良源』とは、韓国の孫良源牧師、別名を愛の原子爆弾と言われている方の話を娘である孫東姫氏が書いた本です。自分の息子二人を共産軍の青年に殺されましたが、その青年が死刑になるところから救い出し自分の養子として迎え入れ自分の息子のように可愛がって育てた牧師です。
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このような偉大の人物の本を読むとき必ず考えることがあります。それは、どんなにすばらしい話を読んで感動したとしても、たいていの場合は、読者の人生に何も生かされないということです。
本を読み進める時は、登場人物の信仰の偉大さに心奪われ、自分の命をも投げ出して他社を愛する姿に目に涙をすら浮かべるものであります。読み終わった瞬間には、自分の今までのいい加減な信仰生活を悔い改め、この登場人物のようにただ神様に委ねて生きていこうと決心します。しかし読み終わって一日たてば、その心はどこへやら薄れます。一週間たてば、今までの自分に完全に戻り、一年もたてばその本に何が書いてあったのかさえほとんど忘れます。

いかに人の心が罪深いものでしょうか。自分で自分に決心したことさえ守れないのです。もし、この本を読んだすべての人が、自分も孫良源先生のように生きたいと思い、実際にそのように生きるならば、この世のなかはすでに大勢のクリスチャンであふれているでしょう。日々、各地から喜びと感謝の祈りの声が途切れることはないでしょう。
どんなに良い霊的書物を読んだとしても、そこに書かれていることを自分に適用しないならば、何の意味もないということを気づかされます。私はどうなったかといえば、この本を読んで約一年たった今、この本の影響を受けてたいして変わっていない私を発見します。読んだ時には感動してこのくらいの熱い信仰を持たなければと心で思いましたが、今は孫良源先生のことを思い出すのはごくたまにです。彼の人生を模範にしようと思いながら、結局何も模範にしていない自分があります。私にとって最大の課題は、如何にして自分に適用するかです。
今の私に孫良源先生と同じことがすぐに実行できるでしょうか?信仰を持ってまだ約10年、自分のことでさえ多くの壁にぶつかっている私が、突然孫良源先生と同じことをしようとしても一日と持たないでしょう。しかし、すべては真似できないが、一個だけならば見習い成長していくこともできるはずです。

2012年3月22日木曜日

ヨハン早稲田キリスト教会-評判を気にする人たち

■2012/3/22
■QT
■ルカ 20:1-8


 20:1 ある日、イエスが神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせておられると、祭司長や律法学者たちが、長老たちと一緒に近づいて来て、
 20:2 言った。「我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか。」
 20:3 イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねるから、それに答えなさい。
 20:4 ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。」
 20:5 彼らは相談した。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。
 20:6 『人からのものだ』と言えば、民衆はこぞって我々を石で殺すだろう。ヨハネを預言者だと信じ込んでいるのだから。」
 20:7 そこで彼らは、「どこからか、分からない」と答えた。
 20:8 すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」

★黙想
律法学者たちが問答でイエス様を追い込もうとすると、彼らが予想もしない回答をイエス様がして、すべての人を驚かす場面です。ところで、律法学者たちはなぜ民衆をそこまで怖がっていたのでしょう。イエス様が気にいらないのであれば、さっさと捕らえて殺してしまえばいいかもしれないのに、民衆を怖れてイエス様には手をかけない場面が福音書にはたくさん出てきます。
おそらく、彼らは人々の間での自分の評判、自分の立ち位置というものをもっとも気にしていたのでしょう。彼らは聖書を専門とする学者なのですから、イエス様がメシアであるかもしれないくらいのことはわかるはずです。ただ、そんな真理はどうでもよく、自分の評判、自分が民衆から良く思われているかどうかが彼らが一番気にしていることでした。

★適用
私も自分の評判がどうかとそんなに考えることはないのですが、おそらく人の上に立つ立場になったら、どうういう評判が立っているか気にしてしまうかもしれません。ネットでも検索をすると、「○○評判」という検索キーワードがたくさん出てきますが、多くの人が評判を気にしていることの現われでしょう。実際、自分も病院やレストランを探すときに、そのホームページもみますが、一方で評判を見て決めてしまうこともありました。評判が実は主観的であくまでも参考情報にしかならないことを知っているのに、それに惑わされてしまうのです。私はヨハン早稲田キリスト教会に日曜日に行っていますが、ここでは聖書を基礎にしっかりと信仰について教えてもらえるので、余計な評判に気を紛らわされなくてすみます。
評判よりも何が真実なのか、主に祈ることで、答えをいただくようになりたいです。

2012年3月19日月曜日

■2012/3/19
■QT
■ルカ 19:1-10

 19:1 イエスはエリコに入り、町を通っておられた。
 19:2 そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。
 19:3 イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。
 19:4 それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。
 19:5 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」
 19:6 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
 19:7 これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」
 19:8 しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」
 19:9 イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。
 19:10 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

ザアカイは金持ちの徴税人で生活には何不自由なかったはずですが、イエス様が通り過ぎようとされると、恥ずかしさも気にせず木にのぼってイエス様を見ようとしました。お金があっても、心の中は虚無や不満でいっぱいであり、なんとかそこから抜け出す方法を見つけたいという思いがあったのでしょう。それゆえに、イエス様が家に立ち寄って下さり、イエス様といろいろ深く話したのでしょう。本当の救いと平安を得ることができ、財産を施すことに決めました。

★ハットポイント
日本は1億総中流と言われています。そんなにお金持ちではありませんが、世界から見ると、充分に豊かであり、物も食べ物もあふれています。ザアカイのようにある意味、世の中でうまくやっている者たちです。しかし、心が満たされている人はほとんどいないようです。職場ではいろいろなところで絶えず上司や会社に対する不満が聞こえます。欧米の会社では、そういった不満や愚痴話は会社でほとんど聞こえないと聞いたことがあります。
都心の金融街やビル街の周辺には高給とりのいわゆる成功者と呼ばれている人たちがたくさんいます。六本木や銀座などには経営者や資産家なども多くいるでしょう。しかし、彼らの中にも今ザアカイのように心の虚しさを感じ真理を求めている者がいるかもしれません。
私はやはり弱く困っている人のほうに目がいきがちですが、相手の地位や成功状況に関係なく、むしろ、一見、強く何不自由なさそうな人にも目を止め、彼らに福音を伝え彼らのために祈らなければならないと悟りました。
今日この瞬間にも主を知り救われる現在のザアカイがたくさんいることを信じます。

2012年3月16日金曜日

ヨハン早稲田キリスト教会-カルトと異端について

1995年のオウム真理教の事件以来、日本では「カルト」という言葉がよく見られるようになりましたが、主に反社会的な宗教団体をカルトとして一般的には考えられているようです。団体内で暴力が振るわれたり、団体に入った人がまともな生活を送れなくなったり、テロ事件にまで発展するケースがあったりして、世間の時事ネタとなっています。
ところで、正当なキリスト教教義とは異なる教えを信条とする教派、団体のことを異端と呼ばれています。異端は特に反社会的な行為を起こしているわけではなく、粛々と活動をしているためにこちらにはあまり焦点が当たっていませんが、目立たない分、むしろ異端のほうが身の回りに浸透し大きな影響を与えていると思われます。

キリスト教の異端と一般的に認められているものの中で代表的なものを個人的体験と共にあげてみます。
以下のような点を持つものは異端です。
・聖書以外の書物も使用する
・イエス・キリスト以外に神(崇拝対象)が存在する。
・神の三位一体説を認めない。


①末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)

1830年にアメリカ合衆国ニューヨーク州でジョセフ・スミス・ジュニアにより創設。ソルトレーク市を本部とし、全世界で会員数は約1200万人。聖書以外にモルモン書を使用する。神の三位一体説を認めない。独自の戒律が存在する。

多摩市に住んでいたころ、昼ごろに出かけようとしていたところ、二人の若い白人の青年が家にやってきました。みんなでお茶を飲んだり聖書を読んだりする集まりがあるので来ないかと誘われましたので、熱心に伝道しているクリスチャンだと思い、自分もクリスチャンです、頑張って下さいと答えたら、二人は紙を取り出して「アポクリファ」と書き何かと質問してきました。私はよくわかりませんでしたので、良くわからない顔をしていると、二人は何やら本を取り出してきて見せようとしました。聖書かと思ったのですが、どうも見た目が違う、このとき、はっと、これはモルモン教のモルモン書だと気づきました。私は一緒に参加する気はないことを表明すると、二人はすぐに去って行きました。後で調べて、よく白人の若い青年が二人組みで自転車に乗って伝道していることを知りました。以前、川崎に住んでいたころには見かけませんでしたので、おそらく特に多摩地方に多いのではないでしょうか。(あくまでも私の推察ですが。)

②エホバの証人(ものみの塔聖書冊子協会)

1870年にチャールズ・テイズ・ラッセルが創設したが、混乱状態を経た後、1931年にエホバの証人という名前に改称。全世界で会員数は約600万人。イエス・キリストを神と認めず復活も信じない。家から家への宣教を活動の主体とし、世俗的な内容を極度に拒否する。

私の実家は長野県ですが、子供のころによく、40~50代くらいの女性の二人組みが家にやってきて、「目覚めよ」と題する小冊子を置いていきました。その中には、この世界は神様が創造したという内容が主に書かれており、イラストもきれいでしたので、変な冊子だと思いながらも眺めていました。父親は大の宗教嫌いで全く信じない人でしたので、私もどうせ嘘だと思って適当に読んであとは放っておきました。大人になって、これが異端の宗教であることを知りました。

③統一教会(世界基督教統一神霊協会)

1954年に韓国の牧師・文鮮明により創設。全世界で会員数は多数、関連企業多数。イエス・キリストの復活を完全な救済と認めず、文鮮明が真の救世主メシヤであると教える。聖書以外に「原理講論」を使用する。合同結婚式、霊感商法などでよく知られる。日本では原理教とも呼ばれ大学に支部が存在する。

私が大学に入学した際に、大学内で「原理教」と呼ばれる人たちがよく伝道活動をしていました。ちょうどオウム真理教の事件が起きた翌年でしたので、学内でも宗教活動に対してやや過敏になっていたのか、「原理教」は統一教会系の団体なので注意するようにとの掲示板がありました。図書館で新聞を読んでいたときに(当時、新聞コーナーは館外の一室にありました)、原理教と称する二人から話しかけられましたが、断ると去って行きました。

異端はどれも三位一体を認めていないために正当なキリスト教から明らかに外れているのですが、怖いことに、聖書について全く学んだことがないと、それすらわからず、これがキリスト教かと勘違いしてしまいます。私も大人になってから初めて聖書と異端について知りましたが、ぜひ子供のうちに何が正しいものか知っておきたかっと思いました。

2012年3月14日水曜日

ヤイロの信仰と百人隊長の信仰

■2012/3/14
■聖書勉強
■マルコ5:21-24、35-43

マルコ

 5:22 会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、
 5:23 しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」


マタイ

 8:5 さて、イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、
 8:6 「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言った。
 8:7 そこでイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた。
 8:8 すると、百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。
 8:9 わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」
 8:10 イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。

ヤイロは、イエス様が来て実際に娘に触って癒して下さることを願いました。一方で、百人隊長は、ただ、イエス様が言葉で命じて下さることを願いました。ヤイロの信仰は目に見えるものに対するものでしたが、百人隊長の信仰は主の御言葉に力があることを確信してのものでした。
もちろん、ヤイロの信仰も馬鹿にすることはできず、当時、ユダヤ人の中で会堂長という立場の中で、周囲の目に対する恥を捨ててイエス様に助けを求めたことは素晴らしいことです。私たちも主に祈り助けを求め委ねるべきです。
ただ、もう一歩目指すならば、百人隊長のように御言葉に力があり御言葉ですべて成し遂げられることへの信仰を持ちましょう。
祈りの答えの多くは御言葉によって与えられます。物質的、人間的に目に見える形で現れることもありますが、御言葉を通して与えられるのが祈りの真の答えです。ですので、QTや通読を欠かさず行い御言葉をしたい求めアンテナを張っている必要があります。御言葉を読まない者は、祈りの答えを拒否しているようなものです。

2012年3月10日土曜日

本当の放蕩息子は

■2012/3/10
■QT
■ルカ 15:25-32

以下、聖書にある「放蕩息子」のたとえ話です。
簡単にまとめると、あるところに父親と兄弟がいまして、弟は父親の財産の半分をもらって家出して遊びほうけ、やがてお金がなくなりどうしようもなくなって家に戻ってきたら父親が喜んで迎えてくれましたが、それを見た兄は、今まで一生懸命父親に仕えてきたのに、何ももらえないことで妬むという内容です。

◆「放蕩息子」のたとえ(ルカによる福音書)
 15:11 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。
 15:12 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。
 15:13 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。
 15:14 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。
 15:15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。
 15:16 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。
 15:17 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。
 15:18 ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。
 15:19 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』
 15:20 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。
 15:21 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』
 15:22 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。
 15:23 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。
 15:24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
 15:25 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。
 15:26 そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。
 15:27 僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』
 15:28 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。
 15:29 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。
 15:30 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』
 15:31 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。
 15:32 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

★ハットポイント
こんな兄のような憐れみのない人間にはならないと自分では思うのかもしれませんが、実は私たちの心には、この兄のような心が潜んでいます。
たとえば、自分はいつも一生懸命仕事をして良い成績を出すのに上司からは特にねぎらいの言葉もなく、一方で全く成果の出ない同僚が突然ちょっと仕事がうまくいっただけで、上司から大変に誉められていたら、おそらく何で?という考えが湧き上がるのではないでしょうか?
主なる神様は全ての人を愛しておられますが、特に弱い者や貧しい者、心の清い者を喜ばれ愛しておられます。主のような広い心を持ちたいです。