2013年1月31日木曜日

罪を犯したことのない者が石を投げなさい


■2013/01/31
■ヨハン早稲田キリスト教会 BibleStudy
■タイトル: 罪に定める人と赦す人
■聖書: ヨハネ7:53-8:11


問題の解決が答えではありません。
イエスは、もう罪を犯してはならないと女に人生の宿題を出しました。

手術は体を切って悪いものを取り出し縫って元に戻すように、御言葉で罪を明らかにし赦し清くするのが主の働きです。体を切っただけで縫わなければ生きていくことはできません。

イエス様はどんな脅かされる状況においても御言葉を教えるという使命を忘れませんでした。

どの場所でも御言葉によって勝負するように、自分をさす御言葉が他人もさします。
ファリサイ人は形式的であっても週に二回断食し日に三回手をあげて祈っています。宗教的熱心ではあるが、我々よりも熱心です。
神様の前で恐れおののくことが謙遜です。まずは御言葉を自分の内面に向けることです。
メッセンジャーは御言葉を乗り越えないと本当にメッセージが出来ません。その御言葉を自分にもあてはめ悔い改めながら進みます。

姦通の現場なのになぜ女だけが連れられてきたのか。男は連れて来られなかったのか?男がいると強く女を糾弾できません。イエス様をはめるための政治的動機で行いました。正義でなく自分の利益のために行う者も多いです。
姦淫の罪を赦せばモーセの律法を犯すことになり破門され、石打ちを実行すればローマ法の中で罪に問われるでしょう。

イエス様は何を書いたのでしょうか?それは書かれておりませんが、十戒かもしれないし、人々の罪を書いたかもしれません。少なくとも、血気あふれる人々を去らせるほど強い内容であったことは間違いありません。己を知れ、というメッセージでもあるでしょう。


★ハットポイント!
ヨハネ8:7「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
初めて聖書を読んだとき、この一文は私にとって衝撃的なものでした。女を赦しても裁いても、何らかの罪に問われ糾弾される状況にあるイエス様がおっしゃった一言は、まさに神様から来たものであり、どんな血気盛んな男も対抗することができなかったのです。
また、この言葉を聞いて立ち去った人々も、それなりに素晴らしいと思います。もし、神様を知らない人であったなら、自分は罪なんてないと考えて石を投げ始めたかもしれません。しかし、人々は少なくとも外見は神に対する熱心な信仰を持つものであり、自分が罪人であることは知識としてわかっていたのでしょう。石を投げることができず自分の罪を素直に見つめて立ち去るしかありませんでした。
聖書に登場する形式的な律法学者の姿を見て、彼らを卑下してしまうこともありますが、週に二回断食し日に祈りを三度捧げたような良いところは見習わなければと思います。

罪を赦される主


■2013/01/31
■ヨハン早稲田キリスト教会 木曜礼拝
■聖書箇所:ヨハネ9:1-12


★メッセージ

イエスキリストは唯一の神の子羊、いけにえであるとヨハネは気づきました。
婚礼では、召使いたちが、イエスが誰であったかを知らなかったが、その通りに行ったら水がぶどう酒に変わりました。
何をやっても意味深く喜びの人生を送ることができると説きました。

ニコデモは何をすれば救われるか質問しました。たいていの人はどうなるべきかよりも何をすべきかについて悩んでいます。

日本は韓国のように人を馬鹿にする言葉があまりありません。言葉がきれいであることは、より宣教に用いられる可能性があります。アララト山と富士山が似ていると感動された人もいます。日本はある時、一気に福音化される可能性もあります。問題は私たちの器がどれだけ整えられているかです。

サマリアの女は結婚もせず男と同居していた不倫の罪深い女でしたが、イエスは深く憐れまれ、ひとことも追及しませんでした。イエスを信じた瞬間からすべての罪は赦されます。聖霊に満たされると、その確信を持ち自信を持って生きることができます。

ソドムとゴモラは当時1000万人の人口でしたが、主は10人正しいものがいれば滅ぼさないと言われました。日本は我々がいれば十分です。

姦淫で捉えられた女について、人々には、姦淫の罪を犯していないものから石を投げなさいとは言わずに、罪を犯したことのない者が石を投げなさいと言われました。姦淫の罪と他の罪は同じくらい重たい罪であることを表しています。

生まれつきの盲人について、人々は祖先の罪か本人の罪か質問しましたが、全くうそではありません。私たちの罪はアダムとイブの罪に行き着きます。しかし、それを考えるときりがありません。イエス様にとって誰の罪であるかは関係ありません。すべての罪は赦されるからであり、神の業が現れるためです。

2013年1月27日日曜日

リバイバルの要素


■2013/01/27
■ヨハン早稲田キリスト教会 主日礼拝
■タイトル:主よ、リバイバルを起こしたまえⅡ
■聖書箇所:ハバクク3:2, 16-19, 使徒6:7

★メッセージ
リバイバルする確信に至る要素

1. 主の御言葉に対する確信
ハバクク1:12で、主は私たちの益のために懲らしめられますが、決して命を奪われることはありませんという告白をしました。
そして、ハバクク1:13-17では、主はなぜ民を捨て置かれるのかと、主に対して説得するような言葉で臨んでいます。主と深い関係のある信仰者にとってはよくあり得ることです。いくら悪い民であるとは言っても、他の民族よりはまともでしょうと、主を説得しようとします。主の本当の鞭はとても怖いからです。

ハバクク2:2「走りながらでも読めるように板の上にはっきりと記せ」心に御言葉を刻み込みなさい。日常生活と御言葉が完全にリンクするように。
ハバクク2:3「たとえ、遅くなっても待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。」主の御言葉を信頼せよというメッセージです。
御言葉を忠実に実践するとき、主があらゆる奇跡を起こしてくださいます。
エフェソ1:4、ヨハネ5:24、ヨハネ10:10

先進大国は日本を除いてクリスチャンの国ですが、日本だけが例外です。
経済的に困っても実家にも戻れない人が多いです。関係ないという考えが蔓延しています。
人という漢字が互いに支え合うことを意味するように、隣の人とは何らかの形で関係があります。

ヘブライ12:5 主は愛する者を鍛錬される。
祈りは、賛美、告白、感謝、願いです。

第二テモテ3:16、ローマ1:16、使徒6:7
御言葉が小グループで盛んになるように、御言葉が毎日楽しくなるように、励みましょう。

ハバクク2章5節以降、罪を 犯し続ける者が災いであると書かれます。
3章3-15では、主がどれだけ我々を愛し奇跡を起こしてくださるかを鮮明に描きました。
17-19、物質的に何も満たされなくても、主によって喜び踊るという、主に対する確信です。たとえ、間違って求めても正しく満たしてくださいます。これがリバイバルする人の特徴です。

2013年1月24日木曜日

聖書は歴史の本


■2013/01/24
■ヨハン早稲田キリスト教会 木曜礼拝
■聖書箇所:ヨハネ7:1-7

★メッセージ
ノンクリスヤンでも罪意識はたくさんありますが、クリスチャンであればなおさらです。
悪霊が人に罪意識を植え付けて重い雰囲気にしてしまった。あまりきちんとせずに、悪霊を追い出しましょう。

日本は歴史観を教えない。自分たちの過去を振り返り学ぼうとしませんが、聖書は歴史の本です。

御言葉が真理であることを聖霊様は教えて下さいます。
我々のほうから福音を伝えるのを拒絶してしまうことがありますが、そうすればその人は福音を聞くチャンスがありません。
個人伝道を600人から900人くらいすると人の内面が見え怖くなくなります。

パン五つと魚二匹からの奇跡


■2013/01/24
■ヨハン早稲田キリスト教会 BibleStudy
■タイトル: パン五つと魚二匹の印
■聖書: ヨハネ6:1-15

地獄は自分を見せたがるが、天国は姿を見せません。
私たちは罪人であるため天国を見ることはできません。

過越の祭りーエジプトでの10の災いでの最後の災い、羊の血を鴨居に塗った者の家を過ぎこされました。過越しの祭りの時期にこの奇跡を行ったことは、イエス様の到来を意識しています。
男だけで5000人が集まりました。仕事がなく貧しい人たちが中心でした。
フィリポは最初から疑って何もしませんでしたが、アンデレは五つのパンと二匹の魚を持ってきました。
何もできませんという不信仰でなく、アンデレのように、からし種の信仰を持ちましょう。
みんな素朴なものを何かもっています。それを主に持っていけば、5000人に食べさせることができます。

馬を買うと三ヶ月、家を買うと三年、欲しくなくなります。人は目的のものを手にいれると興味を失います。この世にはパンだけを願って人生を台無しにしたものが多いです。

★ハットポイント!
フィリポのように最初からあきらめて何もしないのではなく、アンデレのように例え少しだとしても何か期待を持って行おうとする態度が重要ですね。大変なことに直面とすると、最初からむりだと考えてしまうことが多いですので、そのような考えが変わり、まずこれだけあるじゃないかと考えられるようになりたいです。

2013年1月20日日曜日

ハバククのリバイバルの祈り


■2012/01/20
■ヨハン早稲田キリスト教会 主日礼拝
■タイトル:主よ、リバイバルを起こしたまえ
■ハバクク3:1-7


★メッセージ
今年はリバイバルに関するメッセージが多く示されています。
なぜ日本はリバイバルしないのか?世界のG7の国の中で福音化されていないのは日本だけです。

侍とは寺を守る人のことをさします。
日本は軍国主義の反省から愛国の概念を消してしまいました。
本当のクリスチャンは国を愛し守るものです。聖書の登場人物は愛国者ばかりです。聖書の愛国とは自国の民族を愛し救われ福音化されることを願い実践するものです。

リバイバルの二つの意味
(1) 死んだ人を完全に生き返らせる
神はアブラハムに正しい人が10人いればソドムとゴモラを滅ぼさないと言われました。日本のクリスチャン人口が0.45%だとしても、10人よりはるかに多いです。
(2) 教会に通っているが変わらない人が変わる
創世記の大命令により、すべての権限と力を与えられたのが人間です。
救われた者として価値観、行動が変わらなければいけない。国家観、職業観など。
聖書的な信仰を持ち自分勝手な自分を求めるを捨てましょう。

1. リバイバルは祈りから始まります

主の御心を悟ったハバククが3章を書きました。ハバククの目から見ると地は罪で満ちていました。準備できていない、清められていないのに主が働かれるとしたら、御怒りのみであることをハバククは悟り、「怒りのうちにも、憐れみを忘れないでください。」と祈りました。
バビロンの捕虜になったにもかかわらず未だに悔い改めない民を見て祈りました。

遠藤周作の「沈黙」
徳川家康によるクリスチャン迫害以来、日本が全くリバイバルされないことで、主はどうして沈黙されているのでしょうか?と呟いたものです。ハバククも同じような心境でした。主はつぶやきの祈りでもきかれています。
間違った祈りはありません。祈らないよりは祈るほうが良いです。小さな祈りでもどんどんすると主に喜ばれます。もし、間違っているなら、主が修正してくださいます。

2013年1月17日木曜日

渇かない水


■2013/01/17
■ヨハン早稲田キリスト教会 BibleStudy
■タイトル: 渇いた者に水を与える
■聖書: ヨハネ4:1-24


ヨハネは初めイエス様を「見よ、神の子羊だ」と言いました。
人々が水を汲みにいかない一番暑い昼間にサマリアの女は出てきました。女性が集まると噂話しが多くサマリアの女は敬遠されていました。

人々は自分の基準や判断を持っているがそれが積みあげた壁になり近づくことができません。
あの人に話しかけようかと迷ったときが本当のチャンスです。後で話せばいいと思うこともありますが、その考えを捨てないと伝道は難しいです。会社から部下を連れてくる人は多いが、上司を連れてくる人は少ないです。

当時、ユダヤ人はサマリア人を伝道しなかったが、イエス様はサマリア人を伝道して模範を示しました。イエス様から声をかけました。伝道で重要なのは自分から声をかけることです。

水の話しを通してきっかけを作り罪の話しをしました。
水の性質は次のようなものです。
渇きを癒す、命を維持する、汚物をきれいにする、固いものを柔らかくする、火を消す、上を向いて沸く、実を結ばせる

現実を見てあきらめてしまうことはダメです、私ができなくても主がなして下さります。
心にある虚しさが癒されます。


★ハットポイント!
自らの罪による報いと周囲の人々の冷たい視線ゆえに、最もみじめな境遇にあるサマリアの女が、イエス様と出会い、最も栄光ある救いの場所に引き上げられる素晴らしい場面です。
主はサマリアの女のようにたとえ身分が低くても貧しくても求める者に出会って下さいます。私もどどんな場所、時代においても常に主を求めていきたいものです。

2013年1月4日金曜日

最上級のものに変えられる


■2013/01/04
■ヨハン教会 モーニングチャペル
■ヨハネ 2:1-12

イスラエルでの祭りにとって最も大切なぶどう酒がなくなるという大ピンチに陥りました。もう結婚式が無駄になってしまうほどの一大事だったのです。誰もが狼狽する場面でしたが、イエスの母マリアは落ち着いて、イエスに助けを求めました。

その状況において、イエスは母マリアに「婦人よ」と語りかけます。一見、赤の他人かのような発言ですが、これはメシアとしての公の生涯を歩んでいるという心を表しています。続けて「わたしの時はまだ来ていません」と仰り、自分の時をよく理解していることを表しています。

イエスの職業は大工ですのでぶどう酒がなくなったことをイエスに言っても本来は意味がないはずなのですが、マリアはイエスに対して無言の霊的な信頼感があるゆえに、イエスに相談します。イエス様がこの状況を解決して下さるという強い確信があったのです。時を分別し信仰的な態度で見ることが大事です。

さて、イエスは水をかめにいっぱいに満たすように命じられました。そして、イエスに命じられた召使いたちは、イエスの言いつけどおりに、かめのふちまでいっぱいに水を満たしました。水をかめに満たしたところでどうにもなるものではないと疑っても致し方ない場面ですが、召使いたちは疑うことなく、完全に従順する態度で100%言われたとおりに実行したのです。

結婚式の現場の責任者は世話役ですが、母マリアは世話役に話しても何も解決しないこと、イエスしか解決できないことを確信していたのです。そして、実際、イエス様は水をぶどう酒に変えられました。イエス様の手がかかると、すべては最上級のものに変えられます。

私たちの問題も人間の権威や自分の能力に頼ることなく、イエス様のもとにもっていくとき必ず解決されるでしょう。私たちが用意したどんなわずかで小さなものであっても、それは最上級のものに変えられます。