2013年3月31日日曜日

イエス・キリストの復活、我々の真の希望

■2013/03/31
■ヨハン吉祥寺キリスト教会 主日礼拝
■聖書箇所:ヨハネ20:1-18
■タイトル:イエス・キリストの復活、我々の真の希望

★メッセージ

マグダラのマリアがイエスキリストの墓に行ってみるとそこにはイエスキリストの死体はありませんでした。6節にあるように、亜麻布だけが置いてありました。イエスキリストは復活したのです。
イエスキリストは私たちのために捕らえられて死ぬしかありませんでした。そうでなければ、私たちが死ななければならなかったのです。お金がないとか学歴がないとかより、もっと私たちを惨めにして苦しめるのは私たちの中にある罪なのです。この罪の問題が家族関係や人間関係をすべて壊すのです。聖書のいう罪とは自己中心です。自分はそれなりに正しいことをしている、自分は法を犯すようなことはしていないと抵抗する傾向があります。しかし、自分の心の中には憎しみや妬みやあらゆる罪の心でいっぱいです。
動物はお腹が満たされていれば他の動物を襲うことはありません。しかし、人間の欲望は決して満たされず、次々と何かも求め続けます。
旧約時代には罪を犯すと祭司長の前にいけにえを携えてきて罪を告白しいけにを捧げました。祭司長は動物と人間の両方に手をおいて、この動物にあなたの罪が移ると宣言し、その動物をときには焼き尽くします。ただ、これ一回で完全に赦されるわけではなく、また罪を犯したらまた捧げる必要があります。人間にとって最も怖いものは死です。戦争に出かけると戦いで死ぬ者よりも、死への恐怖で死ぬ者が多いのです。

イエスキリストを信じることによって、イエスキリストの蘇りは私たちの蘇りになります。イエスキリストの復活の体は私たちに与られます。イエスキリストの復活は私たちの再生となり希望となります。イエスキリストの復活により全世界に大きな影響をもたらしました。私たちはどこから来たのか、どうすればいいのかと絶望の中にある者に大きな希望となるのです。ご自分の命をも惜まず私たちを愛して下さった方がイエスキリストです。
イエスキリストの弟子たちはその後、世界中に出かけていって殉教します。インドにはトマス記念館があります。疑い深かったトマスはイエスの体に手を入れるまで信じませんでしたが、彼はインドまで命をかけて福音を伝えにいき殉教します。また、ペテロは鶏が鳴く前に三度イエスキリストを知らないと言ってイエスキリストを否定してしまいましたが、ローマに戻って捕らえられ逆さまになって十字架につけられます。それが現在のバチカンの場所となっています。他にも多くの弟子たちが殉教しています。

イエスキリストの復活した姿を幻と疑う人もいますが、500人以上の人が同時に幻や錯覚を見ることはありえません。ヨハン教会の信徒たちもイエスキリストの姿を見たわけではありませんが、信仰によって主と共に歩めますように。

イースター特別早天-完全な復活

■2013/03/31
■ヨハン教会 モーニングチャペル
 イースター特別早天
■聖書箇所:マタイ28:1-10

★メッセージ

マリアら婦人たちはイエスキリストの復活を予測して墓に向かったわけではありませんでした。ただ、死者の墓を訪問して人間的な礼儀を守る目的でした。そのマリアらにイエスキリストは出会って下さいました。
イエスキリストの蘇りがどれほど究極的なことでしょうか?復活を本気で信じるのならば、考え方が変わるでしょう。一生懸命努力して信じるのがキリスト教だと思っている人もいますがそれは違います。

今までうまくいかなかったとしても復活の主が力づけて下さると信じましょう。
蘇りと生き返りは根本的に違います。復活を否定しようとする人々が常にいます。
イエスキリストの墓が空いているということは大変なことです。もし弟子たちが死体を盗み出してイエスキリストが蘇られたとすると大変ですが、当時、逃げ出した弟子たちに本気で信じてそんなことをする人がどこにいるのでしょう。
イエスキリストの復活は二度と死ねない復活です。「死なない」のではなく、「死ねない」のです。死は恐怖の対象ですが、復活により死は退けられました。イエスキリストの復活はご自分の命を通して行われた大事件です。
聖書をそれなりに信じて自分の幸せにいけばいいではないかと人々を惑わそうとする者がこれから多く出てくるでしょう。イエスキリストの弟子はそのようであってはいけません。聖書の御言葉は一点一画たがわず実現されることを信じて、完全に主に従っていきましょう。

今まで自分はこのようなパターンでやってきたからしょうがない、主イエスが省みてくださればいいけどそうでなくても良いというような信じ方をしているのならば、それは非常に残念なことです。ビリーグラハム先生によれば、多くの人がそのような間違った信仰を持って生きているということです。それでは何も主の働きはできません。自分の力の限界をいつも弁明ばかりしながら生きることはやめて、主の栄光を表しながら尊く生きて行きましょう

2013年3月29日金曜日

ヨセフとニコデモの信仰

■2013/03/29
■ヨハン教会 モーニングチャペル
■聖書箇所:ヨハネ19:28-42

★メッセージ

イエスキリストの死により聖所と至聖所を分ける幕が避けました。これにより私たちに完全な自由が与えられました。

33節 足が折られなかったのは旧約の預言が成就するためでした。成就されなかった預言は一つもありません。骨を折る必要がなかったのは、完全にイエスキリストが死んでいたことを示しています。検死官の役目もお持つ兵士が槍をイエスキリストの体に刺してみると血と水とがわかれて流れ出たと書かれており、イエスキリストが完全に死んでいたことを示しています。足を折る必要がありませんでした。ただ、本当の目的は、36節にあるように、旧約の預言が成就するためであります。

私たちは何もない時にこそ忠実に務めければいけません。まだ起きていないときに祈りを積んでおく必用があります。私たちの悪しき品性が十字架の前に死ななければいけません。主が最も嫌われるのは高慢さです。アダムとイブの罪も高慢さから起こりました。
イエス様は弟子たちの足を洗いながら謙遜のモデルとなりました。弟子たちの足を洗うことは聖書的なリーダーのモデルであります。
福音の確信はただイエスキリストを伝えることです。ヨハン教会でも私たちはただ聖書の御言葉どおりに従うだけです。聖書の中で福音を伝えて迫害されなかったことがあるでしょうか?

アリマタヤのヨセフはイエス様の死後、ピラトに願い出て死体を引き取り葬りました。ヨセフは今までは自分の信仰を隠していた人でしたが、突然、表に出て自分が用意していた墓にイエス様を葬りたいと願い出ました。合わせて6人の女性がイエス様の最後まで共にしました。この6人の女性たちはなぜ最後までついていき、また死後には墓にまた行ったのでしょうか?

私たちは決して自分の人生が無意味だとあきらめてはいけません。ヨセフやニコデモはイエス様がムチ打たれたときには黙っていて死んだ後から出てくるのでしょうか?裁判のときに弁護したらよかったでしょう。しかし、遅かったかもしれませんが、それでもイエス様と関わろうとしたことを聖書は高く評価しています。ヨセフの名前はここで初めて出てきますが、今まで信仰を持ち培ってきたからこそ可能でした。何か突然信仰が成長するわけではありません。何かをするときに遅すぎることはありません。悟ったときが実行するときです。イエス様は私たちと共にいます。十字架の救いの意味をもう一度考えてみましょう。少し足りなくても与えられたチャンスを逃さないようにしましょう。
伝道しようとすると人々は私たちの過ちを探そうとしますが、主は私たちの過ちを隠してくださいます。もし過ちがあるのであれば、主の前に告白し赦していただければ良いのです。

2013年3月28日木曜日

ピラトが書いたイエスの罪状書き

■2013/03/28
■ヨハン教会 モーニングチャペル
■聖書箇所:ヨハネ19:17-27
★メッセージ

20節 ローマ帝国においてはラテン語を利用しましたが、ギリシャ帝国の時代はギリシャ語を使っていました。ギリシャ語は現在の英語のような世界共通語のイメージです。イエスキリストの上の罪状書きに書かれた言葉は、誰もがわかるような言葉で書かれたわけです。
ピラトはイエスキリストを調べて何の罪も見出せずイエスキリストを罪に定めることには心の呵責がありなんとか救いたいと考えました。ししかし、人々が糾弾するためイエスキリストを強烈なむち打ちにし体を血だらけにしこれでいいだろうと民の前に見せましたが、民はますますイエスキリストを十字架につけろと激しさを増し、「ユダヤ人の王」と自ら罪状書きを書いてイエスキリストを十字架につけました。民衆は「ユダヤ人の王と自称した」と書き直すように迫りましたが、ピラトはこれだけは妥協しませんでした。 心の中ではイエスキリストは罪人でないと考えていたのでしょう。ピラトは大勢の罪人を見てきた人であり人を見ればその人が罪人であるかどうかがわかったと考えられます。死ぬかもしれないほどのむち打ちを受けても態度が変わらないイエスキリストを見て、罪人ではないとわかったでしょう。自分には信仰がなかったが、イエスキリストこそもしかしたら人々の罪を赦す真の王なのかもしれないという思いがありました。通常は部下に罪状書きを書かせるものですがピラト自らその罪状書きを書きました。

17節 イエスキリストは自ら十字架を背負いゴルゴタというところへ向かわれました。一人の魂に自分が出会ったイエスキリストを証することこそ受難週の意義があります。この時間こそ自ら十字架を背負われたイエス様を思い起こしながら過ごすものであります。ヨハン教会においても、人の目を気にしたり誘惑に陥ってしまう弱い私の信仰体質を作り変えて下さり、自ら重荷を背負い歩んで行く者となりますように祈りましょう。

2013年3月27日水曜日

ピラトのあいまいな態度

■2013/03/27
■ヨハン教会 モーニングチャペル
■聖書箇所:ヨハネ19:1-16

★メッセージ

ピラトの中に私たちの中にもある罪の問題を見出して下さい。私たちがイエス様を十字架につけたのです。
18:38、19:4、19:6 ピラトはイエス様の内に何の罪も見出せないと何度も言いましたが、にもかかわらず、なぜイエス様を十字架につけてしまったのでしょうか?彼は人類の最大の罪を犯した人物となってしまいました。彼の名前はすべての時代、教会で信仰告白において、ピラトのもとに十字架につけられと、イエス様を十字架につけた人として言われ続けられることになってしまいました。彼は結局、出世もできず最後は自殺してしまいます。

私たちのあいまいな態度が妥協につながりこのような罪を犯すことになってしまいます。決断するときには断固として決断しましょう。じたばたしていると、妥協して罪に陥る可能性があります。
人々は自分の利益が先に立ってしまうとき正しい判断ができなくなってしまいます。日本でも政治において賄賂の問題がありますが、自分の個人的な 利益を得たいという欲望から賄賂を受け取ります。宗教的な問題においても一緒であり、自分の利益にとらわれて罪を犯します。
私たちは自分たちの問題が何であるかを知っていますが、しかし、罪に陥ってしまうのが本当の問題です。

ユダヤ人たちはイエスキリストを真の王ではなく単なる宗教的指導者としてしか受け入れなかった結果、イエスキリストが去った後に大きな苦難を受け70年にはエルサレムから追放されてしまいます。20世紀にはナチスによるユダヤ人迫害という大きな苦難に出会います。ユダヤ人たちは2000年以上もの間、苦難の歴史を歩むことになりました。イエスキリストという大きな恵みがあったのにもかかわらず、自分の利益に妥協してイエスキリストを捨てて十字架につけてしまった結果、このような大苦難につながってしまったのです。
私たちの信仰を目の前の利益も惑わされないようにして下さいと祈りましょう。日本にはあまり証しがありません。イエス様を信じて心が変わりましたという倫理的・道徳的な証しは多くありますが、実際的な証しが少ないです。もちろん、心の変化も重要ですが、主にすべてを捧げた結果、生活や仕事が豊かに祝福されたという証がなかなか少ないです。ソンソルナムさんは日本には何十回も自費で来て演奏会を持ちました。最初は何も報酬もありませんでしたが、やがて気づいてみたら二倍の収入になりました。ヨハン教会にも、このような証があふれることを祈ります。

2013年3月26日火曜日

ピラト症候群

■2013/03/26
■ヨハン教会 モーニングチャペル
■聖書箇所:ヨハネ 19:28-40

★メッセージ

イエス様はユダヤ人の祭司長カイアファのところに連れていかれましたが、法的な権限のあるピラトのもとに送られてきました。
28節 ユダヤ人たちの汚れた宗教的な二重的な態度が示されています。過越祭のときには自分の身を汚したくないといいながら、何の罪もないイエスキリストを法廷に立たせて裁こうとしています。この姿は私たちの中にもあります。誰かが法廷で裁かれるのを見て、私は潔白だからそこに入りたくないといいながら、その人を心のうちに罪に定めるのです。本当に正しい者であるなら何の罪をない方を罪に定めることができるのでしょうか?

受難週には十字架を見上げながら私たちの罪性を覚え悔い改める者とならなければなりません。イエス様を信じていながら、ときにペトロのようにイエス様を知らないという態度をとることもあります。そういう態度を主に告白し清められなければなりません。

ヨーロッパの教会は輝かしいキリスト教の歴史を持ちながら形骸化しほとんどの人が教会に行かなくなってしまいました。ローマ時代に大きな迫害を受けながらキリスト教は広まりやがてローマの国教になりました。それから暗黒の時代が始まり、教会は堕落していきます。1000年間ローマカトリックが行ったことを見ますと、文化的には立派ではありますが、中身は腐っていました。司祭たちはみな愛人がおり懺悔を常とするようになりました。信徒たちが神父に懺悔をすると神父たちはそれを利用するようになりました。
霊的な敵は大きな怖い巨人の姿でなく私たちの心の内にあります。主は私たちに光と塩になりなさいと仰いました。ヨハン教会ではさまざまな祈りをよくしていますが、私たちにもう一度塩気を取り戻して下さい、クリスチャンのアイデンティティを取り戻して下さいと祈りましょう。

ピラトは宗教的な議論に巻き込まれるのは嫌でした。ただ、騒ぎが収まり何事もなくなってくれれば良かったのです。もし何かローマに反乱するような行いがイエス様にあったのならば、すでにピラトの耳に届いていたでしょう。当時のローマは完成された帝国であり情報網も発展していました。ローマ中のあらゆる情報は総督のもとに届いていたはずです。ピラトは真理に目を向けず自分の利益に負けて真実を隠してしまいました。ピラト症候群は私たちの内にもあります。
韓国のある中国大使は中国宣教のために、中国の28人の要人を覚えて毎日祈りました。通常、中国の教会では教会の看板を掲げると公安に撤去されてしまいます。大使は共産党の宗教部を訪問して、何で看板を掲げるのを許さないのかと1時間にわたり机をたたきながら訴えました。その結果、看板を掲げることを許され何十の教会の上にキリスト教会の看板が掲げられました。これは彼の政治生命をかけて行ったことです。もし間違えたら、共産党に拒絶され国家間の政治問題になり彼自身も追放されるでしょう。
残念ながら韓国の要人の中でもクリスチャンでありながら模範とならない人たちも多くいます。ピラト症候群から抜け出るのは大変なことです。

イエス様はユダヤ人たちから無実で訴えられるとき何か大きく弁証するのではなく黙々と絶えながら主への栄光を現します。主への栄光の帰し方は必ずしも派手なものばかりではありません。政治家になったりお金を稼いで献金したりして主に栄光を帰したいと多くの人は望みますが、全く人々の目に映らない形で栄光を帰す方法もあります。たとえば政治家が悪い者から賄賂を受け取らないこともそうです。それは誰にも言えませんし知られませんが正しい行いは主の喜びとなります。イエス様の十字架は全く華々しいものではなく苦しみであり誰も望まないものです。

2013年3月25日月曜日

受難週の過ごし方

■2013/03/25
■ヨハン教会 モーニングチャペル
■ヨハネ 19:1-17

★メッセージ

受難週ではカトリックも敬虔な日々を過ごします。日本では受難週は全く関係ないような風習ですが、日本でも受難週を敬虔に過ごすような風土が生まれることを信じます。
何か明確に言及されているわけではありませんが、受難週では、断食をしたり遊びに行くのをやめたり、それぞれ努力して敬虔に過ごそうとします。
イエスキリストが十字架につけられたのは、福音を人々に知らせるためであり、成熟した信徒たちはそれを知っています。

17章において、イエスキリストは残される弟子たちのために祈ります。イエス様は十字架につけられる前に段取りをされました、イエス様は弟子たちの足を洗われました。問題だらけでどうしようもない弟子たちを愛し、ゲツセマネで汗が血に変わるほどに祈られました。
日本人には人々に自分の弱みが露出されたとき意外な行動に飛び出てしまう弱さがあります。江戸時代で自分の信じていた人々からキリスト教徒だと通告され、隣人に裏切られたことでパニックになった人たちがいました。

18章ではユダが通告しイエス様は捕らえられますが、8節で弟子たちを離すように言われて最後まで弟子たちを守ろうとします。
イエス様はこの時のためによく準備してきましたが、一方でペトロは、イエスは自分の仲間でないと否定してしまいます。かつて、死んでもついて行きますと明言したにもかかわらず、いざとなると裏切ってしまいます。霊的に良く準備して備える必要があります。自分の信仰の弱さを正しく認識し祈る必要があります。
困難な状況は必ずやってきますが、イエス様を見習っていくことを固く決意をしましょう。

2013年3月24日日曜日

十字架につけられたイエス・キリスト

■2013/03/24
■ヨハン吉祥寺キリスト教会 主日礼拝
■タイトル:十字架につけられたイエス・キリスト
■聖書箇所:ヨハネ19:17-27

★メッセージ

イエス様は十字架に向かう前にいろいろな段取りをされました。弟子たちの足を洗い、弟子たちに自らの復活の預言をします、
弟子たちの足を洗われたのはエルサレム入場の前でした、イエス様はまず弟子たちに模範を示されようとしました。人の足を洗うためには、低い姿勢にならなければなりません。また、パレスチナ地方は砂漠であり、そこを歩くため足は最も汚い箇所でありました。
指導者は模範を示さなければなりません。イエス様は弟子の足を洗われて模範を示されました。

アメリカのある若い事業家は貧しい人たちに対する病院や学校を100個以上建てるというビジョンを持ってやっています。すでに5個建てましたが、さらに建てようと努力しています。
Forever21の社長であるオクチャンホ社長は、上場もしていないのに5000億円の個人資産を持っていますが、彼は全財産を寄付しています。今度は大阪に店を出す予定です。彼は自分自身に使うお金はなく、ある一つの国に使うか全世界に広く使うかはまだ決まっていませんが、すべてを主のために使おうとしています。

17節 イエスキリストはゴルゴタの丘で十字架につけられました。イエスキリストの十字架を見る時、その十字架は真の献身であり愛であります、ローマでは十字架につけられる人は約250kgの重い十字架を自ら背負い刑場である丘まで登らされました。十字架の刑はあらゆる刑の中でも最も残酷であり徐々に力を失い死んでいく刑です。若く体力のある人は10日間くらい、体の弱い人でも数日、死ぬまでにかかります、人々が通る道につけられさらしものにされました。釘付けに使う釘も腐ったものであり、炎症も発症します。やがては気が狂いおかしな言葉を吐きながら死んでいきます。

ガラテヤ3:13 人間は自己中心で考えます。神様を知らない者は自分の快楽や利益ばかりを求めます。

2013年3月23日土曜日

日曜日に仕事を休んでも繁盛する

■2013/03/23
■ヨハン早稲田キリスト教会 土曜礼拝
■タイトル:救いの源、イエスキリスト
■聖書箇所:ヨハネ17:1-26

★メッセージ

あるクリスチャンが焼肉店を経営していますが、日曜日に仕事を休んで店を閉めます。しかし、その店がその地域で最も繁盛し平日にはたくさんのお客が来店しています。

教会には仕事も考え方も全く異なる人たちが集まっています。この人たちが一つになることは簡単ではないはずですが、なぜ一つになることができるのでしょうか?聖霊様の働きによって教会に集う兄弟姉妹たちはキリストの名によって一つになることができます。

ビジョントリップに参加した日本人の兄弟姉妹たちは、韓国の教会に行ったとき、そこの先生から祈って下さいと言われて切に祈りました。その祈る姿を見て韓国の教会の先生方が驚いたとともに感動しました。韓国での教会でも若い人たちはそれほど熱心に祈らないことが多いようです。日本人のクリスチャンが韓国の教会のクリスチャンを励ますことになったことを感謝します。

17節 私たちは聖なる者として世の中から区別されます。イエス様を信じる人は信じない人と違わなければいけません。ときには損をすることがありますが、後になって豊かに祝福されます。勉強時間や仕事時間が少なくなるかもしれませんが後から神様が与えて下さるものが多くなります。
★ハットポイント
世の中の人々で努力家と呼ばれる人々は、夜も徹夜し土日も休まず仕事をします。それなりの成果をあげますし、それがすばらしいことのように見られています。しかし、聖書では主日(日曜日)は仕事を休み主に礼拝しなさいと命じられています。店舗を経営している人にとって、一番客の多い日曜日に閉店することは日本では考えられないことですが、仕事を休んでも祝福されもっとも繁盛するのは素晴らしい恵みです。そもそも仕事をすることは目的ではなく、ただ神様への栄光を表すことにあるから、何のために努力をして仕事するのかよく考えないといけませんね。

2013年3月21日木曜日

弁護者、イエス・キリスト

■2013/03/21
■ヨハン教会 BibleStudy
■タイトル:別の弁護者を遣わす
■聖書箇所:ヨハネ14:15-24

★BibleStudy

15ー16節  三位一体の父なる神様の話です。今イエス様がここにいらっしゃるのにいなくなるということが弟子には想像ができませんでした。イエス様は何か大変なことがあるとき、必ず前持って話して下さいます。人に問題があるときは前持って警告して下さいます。しかし、私たちの耳が鈍くて聞かないとしたら、神様は嘆かれます。
イエス様が昇天されてから50日後に聖霊が降臨しますが、このときに弟子たちは、イエス様が共にいると仰ったことの意味を悟るようになります。聖霊様は慰め主であり私を代弁するものでありカウンセラーでもあります。また弁護者であり、私を保護してくださり、恵みを与えて教えてくださる方です。
弁護者という言葉は法律用語です。私が罪を犯して裁判を受ける時、他の人が私を 助けてくれます。主は私たちと共にいると約束してくださいました。

18節 イエス様は、あなたを孤児のように一人にはさせないと仰いました。聖霊様が私と共にいることは嬉しいことでしょうか?負担でしょうか?ある人は聖霊様が私と共にいることを負担と考える人がいます。うまくいく時には聖霊様が共にいると嬉しいですが、罪の問題があって苦しいと、聖霊様から離れたいと考えてしまう人がいます。それでも、聖霊様は常に共にいると約束されておられます。
私に力があり能力もあれば人々が近づいてきますが、そうでない時は人々は離れていきます。主はどんな時でも私と伴うと約束されています。

17節 聖霊は真理の霊であり、私たちを真理すなわち正しい道に導いて下さる方です。何が正しいかを教えてくれるのは知識ではありません。聖霊様が教えて下さいます。学校でも世の中でも何が正しいかは教えてくれませんが、ただ聖霊様がその真理を教えてくださいます。
精霊様の導きなのか?自分がやりたいだけなのか?見分けるのは大変です。私たちの生活に有益となるのであれば恵みを得られます。
父を愛する人は掟を守るし、父からも愛を受けます。

2013年3月17日日曜日

主が必要だと言うとき


■2013/03/17
■ヨハン早稲田キリスト教会 主日礼拝
■タイトル:イエス様の十字架への歩み
■聖書箇所:ルカ19:28-48


★メッセージ
ザアカイは誰にも認められず苦しんでいました。お金が欲しい時だけ自分を頼ろうとする人々の行いが嫌だったのです。イエスキリストは完全に罪を赦し癒される方だと聞いて、自分の立場も顧みず木に登りイエス様と会いました。

経済大国であることがそれほど良いでしょうか?アメリカは経済大国ですが、人種差別、民族差別などあらゆる人間間のトラブルを抱えています。アメリカンドリームといってチャンスは日本より多くはありますが、誰もが成功できるわけではありません。

1.主がお入りようだと言いましょう
子ロバを引いて来なさいと言われて弟子が引きにいったとき、複数の子ロバの持ち主が、「なぜ子ロバをほどくのか」と言いました。おそらく子ロバの持ち主たちは貧しい人たちであったのでしょう。しかし、「主がお入り用なのです」と言われたらすぐに提供しました。主はそれを持って行ってしまったのではなく返されました。

ギリシャ神話に出てくるチャンスという神は、前髪が豊富で後ろ髪は全くないものです。前から来る時には捕まえられますが、後ろから捕まえることはできません。これがチャンスというものです。

喜んで差し出す者は返してもらうだけでなくさらに祝福されますが、けちな者はその祝福に預かることはできません。

大震災後、体育館などで大勢で我慢して励まし合って暮らしていた人たちが仮設住宅に入った人々が数年で次々に自殺するという現象が発生しました。彼らの孤独の苦しみは福音なしでは癒されることがありません。政府や教育学者に任せるのではなく、教会が担わなければいけません。
ヨハン教会もまだ小さいかもしれませんが、その悲しさを分かち合いそれを小さくし、喜びを分かち合い大きくすることができます。さらに一つ教会が開拓されようとしています。十分に可能です。

ヤコブ2:14、17 行いがない信仰は死んだものと同じです。
第一コリント3:16-17 あなたがたは神の神殿です


★ハットポイント
自分が労苦して稼いだものを無料で人に捧げることは簡単にできることではありません。といいますか、日本では、そのように思われています。ただ、少し違う国の文化に目をやると、人にあげたりすることが当たり前だったりします。
何の見返りがあるかわからない人にあげるのは大変ですが、主が必要だと言われるのなら差出すのが良いでしょう。主は心から差し出すものに必ず祝福して下さるからです。というと、後でもらえるから差し出すのかとのことですが、もちろん見返りを求めずに捧げるのが良いですが、人間である以上、惜しむ心もあることを主もご存知でしょう。
そのような心でも主に捧げるとき、主が喜んで下さると信じます。

2013年3月16日土曜日

私の財産とは


■2013/03/16
■ヨハン教会 QT
■ヨハネ 15:1-17

 15:15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。
 15:16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。
 15:17 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

★黙想
主は私たちを友と呼んでくださり、私たちと何でも気兼ねなく分かち合って下さる存在です。それだけでなく、父なる神様が仰る真理を私たちにすべて伝えて下さるというのです。

★適用
主は私たちにすべてを与えて下さいます。私たちが得たあらゆる財産はもちろん給料としてもらうものや親・親戚からもらうものもありますが、結局は主からいただいたものといえます。だとしたら、私たちはいただいたすべてを主に返さないといけません。
私が持っている財産とは何でしょうか?世の中の視点で見れば、財産とは、私が所有しているものであり、将来の生活を保証したり自分の得たいものを得るための手段ですが、主の視点から見れば、私がまだ返していない、すなわち主や隣人に捧げていない残っている分だと考えられます。
一般的には財産がたくさんあることは良いと考えられますが、主から見れば、自分自身で所有して離さないけちな人間であることの証かもしれません。
財産を増やすことに喜ぶのではなく、友である主に喜んでささげるものでありますように。

2013年3月10日日曜日

無慈悲な主人にも従いなさい


■2013/03/10
■ヨハン早稲田キリスト教会 主日礼拝
■タイトル:イエス様の十字架の苦難を覚えて! ペトロの手紙講解7
■聖書箇所:ペトロ一2:18-25


★メッセージ
19節は国家にも従いなさいと説いています。日本は理想的なモデルの国ともいえます。日本には革新はあっても革命はありません。
16,17節では、クリスチャンは完全な自由が保証されています。何者にも侵されてはなりません。しかし、私たちの身体はまだ完全ではありませんので、罪のために自由を利用しないように気をつけて下さい。
18節の召し使いたちとは簡単な奴隷の身分の人たちでした。彼らに示されたのは、主人に刃向かいなさいということでなく、仕えなさいということです。主からのコーリングは、to doではなく、to beになることです。主に栄光を帰するための使命が与えられます。主をおそれおののいて主を敬い自身を捧げます。
善良で寛大な主人に従うのは当然ですが、無慈悲な主人にも従いなさいと主は語っています。無慈悲な主人とは悪質な人たちをさします。
rootという映画ではアメリカでの黒人奴隷の話が出てきます。かつて、多くの黒人がアメリカにつれてこられ、家族バラバラにされ苦しい労役を課せられました。ある時、良い白人の監督が与えられましたが、それでも黒人奴隷たちはその白人も馬鹿にして言うことを聞きませんでした。そのとき、ある黒人が立ち上がり黒人たちに叱りました。もし監督に従わなければ、その監督は不能として変えられてしまい、ひどい悪質な監督が来たら苦しむことになる、それでも良いのかと。善良な監督にも従うのは大変ですが、無慈悲な監督にも従うのがクリスチャンの精神です。

イエスキリストは30代でしたが、あまりにも肉体的精神的疲労がひどく、50歳くらいに見えました。ただそれだけでなく、すべての人の罪を背負って十字架につけられました。やろうと思えばすべての人を懲らしめることのできる主がどうして地上で十字架で苦しまれたでしょうか?それしか人々の救いの道がないからです。イエスキリストは道であり真理であり命です。ただイエスキリストを通してのみ救われます。命の代価を払って私たちの命を取り戻して下さいました。

★ハットポイント
福音を伝えようとすると、十字軍の話や第二次世界大戦の話を持ち出してクリスチャンはひどいことをしているではないかと思う人がいます。もちろん、ひどいことをしてきたクリスチャンはいますが、聖書では全くそのようには説いていません。むしろ、自分に迫害を加えるような人にも忠実に仕えなさいと命じています。革命を起こして社会体制を覆すことではなく、良く人々に仕えて愛の力で世の中を変えていくことを主は喜んでおられます。
自分自身がそのようになれるように、また誤った考えを持っている人たちに対してはきちんと弁証していく必要があるようです。

2013年3月3日日曜日

本音ではキリスト教は大人気


■2013/03/03
■ヨハン早稲田キリスト教会 主日礼拝
■タイトル:真の自由は善行で主に栄光を帰すること ペトロの手紙講解6
■聖書箇所:ペトロ一2:11-17

★メッセージ
2:12「異教徒の間で立派に生活しなさい」
日本人は99%がノンクリスチャンです。彼らが持っている理念や信条を否定するものではありませんが、彼らはキリスト教を攻撃します。世の中では真理を教えられませんが、キリスト教は絶対的な真理を主張するため、それに抵抗を覚えるのです。クリスチャンから攻撃されていると思い反発しますが、クリスチャンは決して人々を攻撃するものでなく愛するものです。

多くの人は自分は仏教徒だからとキリスト教を拒否したりしますが、いろいろな宗教を本気で命の宗教だと思っている人はほとんどいません。あるアンケート結果によりますと、日本人に本当に宗教を信じるとしたら何を選ぶかと質問したところ、65%の人がキリスト教を選びました。

ガラテヤ5:19 肉の欲と聖霊の想いは、水と油のようで決して交わることはありません。
ガラテヤ5:17 肉と霊が対立し合っている。救われる前の自分の罪の体が今も健在ならば常に霊と戦い続けなければなりません。
ローマ7:19 自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている
第一テサロニケ4:1

士師であったサムソンはデリラが敵のスパイであると知っていたにもかかわらず情欲に負けてしまい弱点をデリラに明かして敵に捕まってしまいます。

フランシスコザビエルが日本で福音を伝えたとき一気にクリスチャンが増えて、織田信長は、キリスト教は人間を偶像化せず神を信じるので自分に従わなくなるのではと勘違いし少し遠ざけました。その後、豊臣秀吉と徳川家康はクリスチャンたちに徹底した迫害を加えました。ほとんどの人々が改宗してクリスチャンとなった島原では、農民が決起して島原の乱も起こっています。
しかしクリスチャンは国に反抗しなさいといっているのではありません。むしろ、国と社会に仕え、神のものは神に、皇帝のものは皇帝に返しなさいと教えられています。島原の乱の後、農民たちは国に立ち向かうことが主の御心でないと悟り、山の方に逃げて暮らしました。その一つが湯布院というところです。曲がった道が多いのは、迫害する兵士から狙われたとき、塀を乗り越えて近くの家に逃げ込めるようにです。

★ハットポイント
歴史を見ると積極的に福音を伝えようとするとき必ず迫害が起こったようですが、それでも人々は真理を求めており、いつかは信じるのでしょうか。ヨハン教会でも福音を伝えていますが、まだそれほどの迫害は体験していませんので、主の恵みなのでしょう。真理を求めているがまだ知らない人に伝えていきたいものです。