2013年4月30日火曜日

貧しいものの一番の代表はイエスキリスト

■2013/04/30
■ヨハン早稲田キリスト教会 モーニングチャペル
■聖書箇所:詩編22:22−32

★メッセージ

25節 主は貧しい人に耳を傾けてくださいます。自分が神から見捨てられたもしれないという告白がやがて賛美に変えられるのがこの箇所です。苦しみの中でも恵みが与えられること、祈れば必ず答えてくださったことを思い出します。貧しいものの一番の代表はイエスキリストでした。神から見捨てられたのように十字架につけられましたが、復活を通して完全なる勝利を与えられました。信仰とはまだ起こっていないことでも起こったかのように行動することです。手術を受けなければいけない兄弟のために、すでに手術を成功させて下さり感謝しますという献金を捧げ、通常より3倍のスピードで回復しました。

わたしが発見した主を伝えましょう。主が働かれるからわたしたちの伝道は実を結びます。主が働かなければわたしはできませんという信仰をもって行動しましょう。日本では神学の研究がよく進んでおり他国から比べてもレベルが高いですが、にもかからわず、日本では主の証が少ないのです。聖書のとおりに行動したら主がこのように祝福してくださいました、という証がたくさんあふれることを祈ります。

主は家庭を祝福されます。31節 子孫は神に仕え 民の末に告げ知らせる。霊的な子孫が産み出され福音が宣べ伝えられるように祈りましょう。弟子となる訓練を受けて主の福音を伝えられるようになるようにです。今日一日がまた主の御言葉を伝えていく日となるように祈りましょう。

2013年4月29日月曜日

祈っても答えられないとき

■2013/04/29
■ヨハン早稲田キリスト教会 モーニングチャペル
■聖書箇所:詩編22:1−22

★メッセージ

主に祈ってもなかなか答えがやってこない、そんな時もあります。主は愛して下さらないのでしょうか。そんなことは決してありませんが、すぐに答えられないことにダビデは葛藤を感じています。祈りに対する大きな期待と、一方で答えられないことへの不安が、交錯している箇所です。2節「なぜわたしをお見捨てになるのか」と落胆しますが、5節「わたしたちの先祖はあなたにより頼みより頼んで救われて来た」と主への感謝の告白をします。6節「裏切られたことはない」大胆に主に対して告白をしています。
FootPrintという詩があります。神様と一緒に浜辺を歩いていたのにある場所は一人分の足跡しかないところがありました。なぜ神様は私と共にいて下さらなかったのかと不平をもらしたところ、神様は、あなたがつらいときあなたを背負って歩いたと言われました。そのような証があふれることを祈ります。
9節「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら助けて下さるだろう」これは励ましの言葉でなく、主に逆らう者からかの嘲りの言葉です。嘲られたダビデはどれほどつらい立場であったでしょうか。イエスキリストも十字架で苦しまれましたが、最も苦しかったのは、肉体的な苦難よりもむしろ父なる神様から断絶されたことです。私たちには常に主が共にいて下さることに感謝しましょう。
12節「母の胎にあるときから、あなたはわたしの神」わたしが主を知らなかったときから主はわたしの神でありました。赤ん坊にとってできることは、ただお母さんを頼りお母さんの乳を飲むことです。私たちの苦難を解決してくださるのは主です。苦しいときこそ主が近くにおられます。聞いて下さらないようでいて最も聞いて下さっています。その主への信仰を確信していきましょう。ダビデの告白のように主への期待を持って歩んでいきましょう。

2013年4月28日日曜日

キリスト、わたしたちの平和

■2013/04/28
■ヨハン早稲田キリスト教会 主日礼拝
■タイトル:キリスト、わたしたちの平和
■聖書箇所:エフェソ2:14−22

★メッセージ

いつの時代に世界が平和であったことがあるでしょうか?私たちに平和として誇れるものはあるのでしょうか?以前は、共産圏、自由主義圏と区別があって争っていましたが、いまや区別もなくなり隣人が突然敵になる時代です。兄弟同士でも家族同士でもお互いにわからない領域、あるいは無関心の領域があり、隔ての壁があります。この隔てはどこからくるのでしょうか。
近代の科学、哲学は対象を疑うことから始まっていきました。突き詰めていってまず自分から始まるようになりました。デカルトが有名ですが、自分たちの存在を自分地震の思考のうえに求めました。結果、他人は疑い信頼できない対象になっていきました。人々は自分自身を信じ自己中心になっていきました。
私たちは自分たちの罪の深さ重さを知りません。それはただイエスキリストの十字架を体験することで知ることができます。そうでなければ、何かに対面したとしても知ることはできません、十字架だけが罪を解決できます。
ある芸術家が木について描きました。その本質を探っていくと、垂直と水平の線に行き着きました。イエスキリストは垂直の線です。世の中の水平の線の上に垂直の線が一本付け加わったのです。イエスキリストの十字架によってのみ神のもとに戻ることができます。本当の悪人は悔い改める能力がありません。清い者は悔い改める力がありますが、すでに清いので悔い改める必要はありません。では私たちはどうすれば良いのでしょうか?イエスキリストが清さをあたえてくださいます。

私たちはイエスキリストにつながることによって、神の家に戻ることができますが、私たちは自ら神様の言葉を聞いて、また、理解することができません。神様の力によって御言葉を理解することができます。神様が今も働かれて私たちに平和を与えられます。その最もたるところが教会です。ですので、みなさんは本日良いところに導かれました。
わたしたちには権限もありませんが、主の計らいによってわたしたちは神の家族となりました。世的な血縁のつながりはありませんが、キリストの血によって神の家族、兄弟姉妹となりました。19節が家族のたとえならば、20節は建物のたとえです。わたしたちはキリストの弟子たちの土台の上に建てられています。キリストによってはじめて神の家族となりあらゆる関係が回復されます、キリストによって和解された人々にはミッションが与えられました。近くにいる者にも遠くにいる者にも平和の福音を告げ知らせなさいと言われました。私たちは平和の福音、平和のキー、イエスキリストを伝えていきましょう。イエスキリストに出会ってみてください。

2013年4月27日土曜日

イエスキリストが与えられた4つのもの

■2013/04/27
■ヨハン早稲田キリスト教会 土曜礼拝
■聖書箇所:マタイ16:14−18

★メッセージ

キリストが復活された瞬間、何かが新しく変わりました。単なる安息ではなく新しい始まりとして日曜日を主日として礼拝を捧げるようになりました。復活後、二人の弟子に会い、その後、十一人の弟子に会いましたが、最初は信じませんでした。イエスキリストが復活されたことは信じようとも信じないとも変わらない事実です。しかし、イエスキリストを信じない人々はここにいた信じない弟子と一緒です。私たちは食べなければ生きていけません。どんな状況でもとにかく食べるのですが、目的もなくただ働いて食べるだけの人生になってしまいます。しかし、イエスキリストが私たちの中に入ってこられるとき、共に食事をして下さり新しい者として作り変えてくださいます。
現代では共に食事をする人がいなく寂しい思いをしている人たちもいます。大学に行くとある学生はどこにも自分の居場所がなくトイレで弁当を食べるという例もあるくらいです。黙示録を見ると、弟子たちは求めていないのに、イエス様は現れて一緒に食事をしようと誘われます。ときには重い扉を通り抜けて弟子たちにタッチしてくださいます。

伝道する時に重要なのはまず私がイエスキリストを信じていることを確認することです。私は本当にイエスキリストを信じているでしょうか。わたしの罪を赦してくださったこと、私の人生を導かれること、永遠の命を与えて下さることを信じましょう。そして、この信仰を周囲の人々に伝えていくことが最高の愛の表現です。すべてのものにイエスキリストを伝えなさいと主は言われます。すべてとはどこまで含むのでしょうか?犬や猫も入るのでしょうか?聖フランシスコは、犬や猫と話し鳥とも会話をしたそうですが、主は人間だけでなくあらゆるものを愛しておられます。被造物すべてを裁くことも生かすこともできる鍵をイエスキリストは私たちに委ねられました。行って主を伝えましょう。

■2013/04/27
■ヨハン早稲田キリスト教会 土曜礼拝
■聖書箇所:マタイ16:14−18

★メッセージ

キリストが復活された瞬間、何かが新しく変わりました。単なる安息ではなく新しい始まりとして日曜日を主日として礼拝を捧げるようになりました。復活後、二人の弟子に会い、その後、十一人の弟子に会いましたが、最初は信じませんでした。イエスキリストが復活されたことは信じようとも信じないとも変わらない事実です。しかし、イエスキリストを信じない人々はここにいた信じない弟子と一緒です。私たちは食べなければ生きていけません。どんな状況でもとにかく食べるのですが、目的もなくただ働いて食べるだけの人生になってしまいます。しかし、イエスキリストが私たちの中に入ってこられるとき、共に食事をして下さり新しい者として作り変えてくださいます。
現代では共に食事をする人がいなく寂しい思いをしている人たちもいます。大学に行くとある学生はどこにも自分の居場所がなくトイレで弁当を食べるという例もあるくらいです。黙示録を見ると、弟子たちは求めていないのに、イエス様は現れて一緒に食事をしようと誘われます。ときには重い扉を通り抜けて弟子たちにタッチしてくださいます。

伝道する時に重要なのはまず私がイエスキリストを信じていることを確認することです。私は本当にイエスキリストを信じているでしょうか。わたしの罪を赦してくださったこと、私の人生を導かれること、永遠の命を与えて下さることを信じましょう。そして、この信仰を周囲の人々に伝えていくことが最高の愛の表現です。すべてのものにイエスキリストを伝えなさいと主は言われます。すべてとはどこまで含むのでしょうか?犬や猫も入るのでしょうか?聖フランシスコは、犬や猫と話し鳥とも会話をしたそうですが、主は人間だけでなくあらゆるものを愛しておられます。被造物すべてを裁くことも生かすこともできる鍵をイエスキリストは私たちに委ねられました。行って主を伝えましょう。

イエスキリストは4つのものを与えられました。一つは、イエスキリストの名によって悪霊を追い出すことができます。悪霊を無視することも悪霊の力を過信しすぎることも間違っています。悪霊と戦って勝てるのは主イエスキリストだけです。ドストエフスキーは人間の体は戦場であると言いました。肉体的な戦いでなく目に見えない霊的な戦いであります。しかしイエスキリストは勝利されるので戦場であるのはわずかの期間ですぐに聖霊に支配されます。
二つ目は新しい言葉を語ることです。聖霊が臨むと弟子たちは聞いたこともない言葉を語るようになりました。言葉を与えられるのは主であります。人々の前で主の言葉を語りましょう。
三つ目は手で蛇をつかむこともできることです。どんな悪も主イエスキリストの力で抑えることができます。
四つ目は病人に手を置けば病気が治ることです。手を置けば病気や問題を解決する力を主は私たちに与えられました。私は退けられても弱められても、ただイエスキリストの栄光が現れることを願うものになります。た。一つは、イエスキリストの名によって悪霊を追い出すことができます。悪霊を無視することも悪霊の力を過信しすぎることも間違っています。悪霊と戦って勝てるのは主イエスキリストだけです。ドストエフスキーは人間の体は戦場であると言いました。肉体的な戦いでなく目に見えない霊的な戦いであります。しかしイエスキリストは勝利されるので戦場であるのはわずかの期間ですぐに聖霊に支配されます。
二つ目は新しい言葉を語ることです。聖霊が臨むと弟子たちは聞いたこともない言葉を語るようになりました。言葉を与えられるのは主であります。人々の前で主の言葉を語りましょう。
三つ目は手で蛇をつかむこともできることです。どんな悪も主イエスキリストの力で抑えることができます。
四つ目は病人に手を置けば病気が治ることです。手を置けば病気や問題を解決する力を主は私たちに与えられました。私は退けられても弱められても、ただイエスキリストの栄光が現れることを願うものになります。

2013年4月25日木曜日

裁いても愛する神様の想い

■2013/04/25
■ヨハン早稲田キリスト教会 木曜礼拝
■聖書箇所:ヨエル2:18−3:5

★メッセンジ

今日本がどこに向かっていくか心配なところです。安倍政権が70%の支持率を受けたからすべてが良くなったと勘違いしてはいけません。歴史は神様の御手の中にあります。神様は決して妥協しません。私たちの内にある罪を見通しておられます。もし、重い病気で病院に行ってたいしたことのないと言われたい人はいないでしょう。私たちは体の病気には敏感ですが、病気については鈍感です。
子供がいうことを聞かないときにはムチをあげますが、本当はあげたくないのです。叩く瞬間に今気づいてほしいと思うのに気づいてくれないので打たざるを得ないのです。いなごを送って食い尽くすとイスラエルの民をおどかすのは、悔い改めて立ち返ってほしいと思うからです。予防注射のように、ひどい罪に陥るのを阻止しようとしておられます。2章の最初では本当に厳しいメッセージを送りながら、12節では「今こそ心からわたしに立ち返れ」と言われます。13節「衣を裂くのではなくお前たちの心を引き裂け」と。当時の人々は悔い改めをするとき衣服を引き裂きましたが、何度も繰り返すとマンネリ化して来ました。ですので、心を引き裂けと命じられました。これが天地を創造された神様の心です。

福島の原子力発電所の事故による汚染の除去は根本的な対策はなく40年以上も待つしかありません。どんな科学技術も主の前に対抗できません。神様の領域にあるものを引き出して扱おうとするとき手に負えず大きな重荷を負うことになりました。
ウィリアムクラーク牧師は、Boys be ambitious in Jesus Christと言い、日本の若者がキリストに立ち返って国を支えるようにしました。その結果、内村鑑三、新渡戸稲造ら活躍する者を生み出しました。ウガンダでは宣教師が入り子供たちに正しい道を伝えました。今の日本にも第二の内村鑑三、新渡戸稲造が現れるように祈ります。今も神様から離れていく人たちがたくさんいます。その人たちのために今日も祈りましょう。
神様の想いが18節から書かれています。神様はある程度まで人の罪を見守ってくださいますが、行きすぎてしまうと罪から立ち返る力がなくなってしまいます。乞食のように助けてくれと這いずり回らなければいけないような惨めなものに落ちてしまいます。21節「大地よ、恐れるな、喜び踊れ」神様に立ち返るならば全てが好転され、大地さえ潤されます。放蕩息子の例を考えて下さい。息子が悔い改め父親を求めて帰ってくるならば、父親は遠くから駆け寄ってきて息子を抱き指輪をはめてくださるのです。
23節 神様の雨は時にかなった恵みで満たして下さるものです。25節 今まで幾年も損したものも倍にして満たしてくださいます。ザアカイは惨めな人生を送っていましたがイエスキリストに出会ってから素晴らしい人生に変わりました。マグダラのマリアも同じです。26節「わたしの民は、とこしえに恥を受けることはない」

裁きの道具とされた強国

■2013/04/25
■ヨハン早稲田キリスト教会 モーニングチャペル
■聖書箇所:ヨエル4:1−21

★メッセンジ

ティルス、シドンといった都市は現代の読者にとっては聞き慣れない地名ですが、当時のユダヤ人によっては非常によく知られた隣国でした。これらの地は主に逆らうものであり裁きの道具として用いられてしまいました。裁きの道具でさえ一瞬繁栄させて下さることもあります。現在の日本も少し景気が好転しているように見えますが、人々が株式投資に次々と走ってすべてが解決したかのような感覚に陥っていることは危険なことです。思い上がる者を主は裁かれるからです。
神様が裁きの道具として用いられたローマも最初は栄えていますが、数世紀後、野蛮民族とされた北方の民族に制圧され滅びます。なぜローマは滅びたのかと問われます。塩野七生という作家は文学者の観点からローマの物語を書いていますが、ローマが滅びた理由をキリスト教にあると書いています。日本もローマも多神教であり何にも寛容であり理想的な国のように記述されます。そこにキリスト教が入り一神教になったことが滅びの原因であると綴っています。しかし、多神教の国に本当に寛容さや強さがあるのでしょうか?ローマが滅びたのは、それまでにローマが犯したあらゆる罪深い行為によるものです。
人々が政治経済の発展など見えるものを砦とせずに、主を砦として歩むことができるように祈ります。神の国に属する者となりましょう。裁きの日に神の国に属する者は救われます。裁きが来る前にこの地の人々が悔い改めて救われるように祈ります。

2013年4月23日火曜日

戦争の最前線に立つのは祭司

■2013/04/23
■ヨハン早稲田キリスト教会 モーニングチャペル
■聖書箇所:ヨエル2:1-17

★メッセンジ

1節 イスラエルの民は戦争が始まるとき角笛を吹いて始めました。戦争に備えなさい、神様に委ねなさいという意味があります。角笛を吹いたのは祭司たちです。戦争の隊列の戦闘に立ってラッパを吹いたのは、兵士ではなく祭司、すなわち霊的なリーダーだったのです。旧約聖書をみれば、アロンの子孫がラッパを吹くと書かれています。この角笛を吹くという行為、つまり危険を伝えることはクリスチャンの行うことです。この罪深い時代にあって悔い改なければ滅びるというメッセージを伝える必要があります。創世記のノアやメトシェラのように世の人々にこのままでは滅びると警告を与えなければいけません。

2節以下 主の日の裁きはどれほど徹底したものであったかが書かれます。主が我慢できないのは、離れた者が離れていない者と一緒にいることです。主は純潔を守るために民が混ざり得ないように裁きを下す必要がありました。今日も祈って清さを保つように心がけましょう。

12節以降 主の裁きの原動力は愛にありました。愛するからこそときに民に厳しく接しましたが、主は悔い改めを待っておられます。16節にて全世代の民を集め悔い改めの集会を開きなさいと言われます。結婚式の花婿、花嫁を引き出して来なさいと言われています。もっと多くの人々が集って祈らなければいけない緊急の命題であります。私たちは集まり祈る必要があります。ヨエルは夢の中で主の恐ろしい裁きを体験しました。その裁きの対象になってしまいかねない魂が多くいます。彼らに救いの福音を述べ伝えましょう。

2013年4月21日日曜日

あなたの罪は赦される

■2013/04/21
■ヨハン吉祥寺キリスト教会 主日礼拝
■タイトル:あなたの罪は赦される
■聖書箇所:マタイ9:1−8

★メッセンジ

ある本には罪について書かれていました。1章 行動で犯した罪、2章 言葉で犯した罪、3章 考えで犯した罪、4章 真っ黒な文字、心で犯した罪という構成でした。
多くの人は罪に対する自覚がありません。十字架の前に自分の罪を認めて告白するとき主が大きく祝福して下さいます。
肉体的な病には皆敏感に反応しますが、心の病については麻痺しているため指摘されても全く反応しません。真っ黒な紙にいくら書き込んでも何もわかりません。ただ御言葉に照らされるとき心の闇に気づくことができます。
イザヤは王室の牧師であり王に御言葉を伝えるものでした。それで自分が偉い牧師だという考えに陥ってしまう危険性がありましたが、御言葉でどれほどのものであるのかと指摘されています。
ある芸能人が酒に酔っ払って公園で裸になり逮捕されましたが、これがその人の心の本音です。本音ではさまよい歩いているのです。
食べて良いものと食べてはいけないものがあります。食べてはいけないものは罪です。ある子どもたちが急な坂で雪玉を作ろうと転がし始めたところ、どんどん大きくなっていきやがて家ほどの大きさになり、下にあった舟の上に落ちて舟が沈んでしまいました。罪を食べることも同じです。最初は小さな罪でもやがてとてつもなく大きな罪になります。その罪を解決できるのはイエスキリストだけです、イエスキリストは姦淫の罪をした女を赦しました。また、十字架に一緒につけられた男の一人が自分の罪を告白したため彼の罪を赦しました。これが私の罪だと認めて下さい。

2013年4月20日土曜日

心から尽くしきる

■2013/04/20
■ヨハン早稲田キリスト教会 土曜礼拝
■聖書箇所:ルカ10:25-37

★メッセージ

何かをしたとしても心からつくなさなければあまり意味がありません。尽くし切るということは難しいことです。
律法の専門家は永遠の命を受け継ぐことについてイエス様に質問をし答えられましたが、それを実行するのが嫌で反発しようとしました。何かを聞いたところ答えられたにもかかわらずそれが重荷になるからといって、聞かない方が良かったと考える人たちがいますが残念なことです。面倒くさい、大変だと思って聞かない人がいますが、神様はすべてを知っておられます。
ある追い剥ぎに襲われた人を見た三人の人がいましたが、最後に来たサマリア人だけが彼を介抱しました。全く違う領域の人が彼の隣人となったのです。祭司長とレビ人は自分の領域を超えることができませんでした。自分の時間、自分のお金、自分の利益、自分の地域、自分の職場というように私たちはじぶんの世界にとどまってしまうことが多いです。そこにはイエス様の愛はありません。
サマリア人は旅行中であり自分なりのスケジュールやお金の使い道がありましたが、それを置いてサマリア人を助けました。

MKタクシーの会長は障害者を優先して乗せるという方針を打ち出しましたが最初はなかなか社員が受け入れませんでした。1年間くらいかけて社員に伝えるに従ってだんだん浸透していきました。あるとき不景気になりお金がなくなり信用金庫に融資を頼みに行ったところ、その担当者がすぐに融資すると言いました。ある駅前でMKタクシーが降りてきてすいませんと断り障害者を乗せてありがとうございましたと言い出発しました。これを見て感動してぜひ協力したいと思ったとのことです。このような証があります。

後回しにせずに今やりましょう。小さなものと考えても今やるときに主が答えて下さいます。就職してから、結婚してから、病気が治ってからと言わないで下さい。人はいつ召されるかわかりません。今やりましょう。今愛さないと今抱かないといけません。心で抱いて下さい。 皆、いい隣人を待っています。その人の所に行って隣人となりましょう。

2013年4月18日木曜日

パウロの喜びと慰め


■2013/04/18
■ヨハン早稲田キリスト教会 BibleStudy
■タイトル:パウロの喜びと慰め
■聖書箇所:コリント信徒への手紙二7:5-16

★BibleStudy

パウロはマケドニア州についてようやくテトスに会うことができました。テトスがパウロに持って行った知らせは、コリント教会が悔い改めたということでした。なぜテトスが遅れたのでしょうか?推測ですが、コリント教会はパウロの手紙を持っていったとき、なかなかすぐには悔い改めなかったのではないでしょうか。もしコリント教会の人々がテトスと一緒に来てパウロと会ったなら、もっと喜びにあふれたことでしょう。わずかながらのコリント教会の悔い改めの態度を見てとても喜びにあふれています。パウロはおそらくその悔い改めが足りないものであるとわかっていたのでしょうが、それを置いて喜びました。主は私たちの少しばかりの悔い改め、たとえそのふりであっても喜んで下さいます。だからといって安住せず、誠の悔い改めができるようにしましょう。
二つの側面から分かち合えます。まずは、コリント教会の立場から。何かを指摘されたとき正しく悔い改めることをしたのか。次には、パウロの立場から。ある人が信仰的に間違っているとき愛する心で叱ったことがあるか、ただ愛する心で行います。

主の前での切なさをコリント教会の人々が覚えるためにパウロは手紙を送りました。その後、夜も眠れないほど心配しました。それが羊を任された羊飼いの心です。この世でのあらゆる行いは自分のために生きても他人のために生きても悲しみの連続であります。この世の悲しみは最終的に死が待っていて虚しいものです。しかし、神様が与えられる悲しみは悔い改めを生じさせ命をもたらします。罪を指摘されても苦しさがない信仰は信仰ではありません。悔い改めれば新しくされてすべてに希望が与えられます。これは思想ではなく具体的な根拠がある事実です。クリスチャンの思い煩いと世の思い煩いを混同してはいけません。クリスチャンの思い煩いは命に至るものです。
パウロは関係の回復を喜んでいます。神の御心に適った悲しみは魂に対する悲しみです。主の福音を伝えても魂が聞かなかったり成長しないとき悲しみますが主が喜ばれます。

コリント信徒への手紙二 前半概要


■2013/04/18
■ヨハン早稲田キリスト教会 木曜礼拝
■聖書箇所:コリント第二11:16−33

★メッセンジ

コリント教会では人間的な問題にあふれていました。派閥に分裂し自分はパウロ派、アポロ派と主張したり、姦淫の罪を犯したり、肉に負けてあらゆる悪事を行っていました。その中でも幾人かのリーダーたちが悔い改めたため、使徒パウロは慰めの手紙を送ります。

5000人が集まった時、人々は飢えていましたが、彼らを満たすためには200デナリオン分のパンが必要でした。ある人が持っているものを差し出しましたが集めても五つのパンと二匹の魚だけでした。この魚も良いものではなく通常であれば捨てられてしまうようなみすぼらしい魚でした。五つのパンと二匹の魚しかないという状況は最も貧しいことを示しています。しかし、主はこれらを持って5000人を食べさせる御業を起こされました。主は私たちの差し出す信仰により助けて下さいます。開拓教会の建築においてもお金がかかりますが、突然お金が降ってくるわけではなく、信徒たちの捧げる行いが必要になります。早く成長いや成熟してほしいのです。他の国で宣教するならば、宣教師の国出身の人はほとんどおらず、現地人で構成され現知事により支えているケースがほとんどです。受動的な態度ではなく、今持っている賜物やお金を通して御業が起こされるように。株式会社で株券を多く持っている人が影響力があるように、霊的な世界でも能動的に働いて人が与えられます。コリント教会よりも貧しい教会の人々によりコリント教会が経済的に支えられました。なんと残念なことでしょうか。

日本の多くの教会では捧げることについて無頓着です。ある教会では窓ガラスが割れていても何ヶ月経っても直そうとしませんでした。教会の長老たちが教会の財政から出すべきと主張して譲りませんが、彼ら自身は立派な家に住んでいました。牧師も50代くらいになると子供が大学に行きお金を必要としますので牧師を辞めざるを得ない場合が多く聞かれました。どれほど残念なことでしょうか。

垂直関係がないと水平関係もうまくいきません。善と悪の概念がないため、悪いことをしてもばれなければいいという愚かな考えです。罪意識がありません。関心がありません。それによって様々な問題が生じます。夫婦の関係が希薄で子供達にも悪影響が及ぼされます、兄弟姉妹の関係もうまくいきません。「関係ない」という人々が多いですがなんと冷たく孤独なことでしょうか。まるで太平洋のど真ん中の無人島に一人で立っているかのようです。「人」という字は二人が支え合っている状態を表します。漢字を研究すると面白い点がたくさんあります。「’義」という字は、我の上に羊がのっていますが、自分ではなく羊が上にくることで主から義とされるのです。「傷ついた」という言葉も使わないようにしましょう。我々の内にいる聖霊様はそんなに弱い存在ではありません。人を傷つけるのはサタンのみです。

戦前に神社に所属する人々が、キリスト教はアメリカの宗教だと決めつけて洗脳してしまいました。アメリカに対抗することはキリスト教を否定することになってしまいました。四日間の生活はいかがでしたでしょうか。我々自身がキリストの手紙です。明るい自画像、キリストの弟子としてのアイデンティティを持つべきです。
もしコリント教会がある程度成熟された教会であるならばパウロを通して何をやってきたのかと叱られるはずですが、コリント教会はあまりにも霊的に弱かったためそこまで叱られませんでした。不同の戒めがあることが素晴らしいですが御言葉以外にどこにそのようなものがあるでしょうか?家訓がある家計もありますが、誠心誠意といったとしても、悪い方向に向かっていって立ち行かなくなったらどうするのでしょうか?それでも誠心誠意やるのでしょうか?
孔子は自分が知らないということに正直になり弟子たちに知らないと言いました。地上のことも知らないのに天の国のことはなおさら知らないと言いました。成績が優秀な人は自分が知っていることと知らないことを区別でき知らないことに集中します。成績が悪い人は自分がすべてを知っているかのように錯覚します。中国では関係を大切にします。関係がよければすべて良いと考えます。

我々は生きたイエスキリストの香りを放つように任されました。4章5章ではそのために何をすべきか語られました。4章2節では、卑劣な隠れた行いを捨てなさいとおっしゃいます。我々の肉体は年をとれば老いてやつれていきますが、内なる姿はますます精錬されていきます。5章10節では、行ったことに応じて報いを受けるといいます。我々は二回裁かれます。まずは、天国か地獄かですが、次は、生前の体をもって主の御心にかなうことをどれだけやってきたか問われます。人が行ったことを主はすべて記録しておいて裁かれます。ですので、時間を無駄にせず正しく行いましょう。
また、すべて愛に基づいて行いなさいと言われます。しっかりきちんと行うことが良いわけではありません。練習するときにしっかりやるべきですが、本番でやっても結局いまくいきません。5勝17節では、キリストと結ばれる人は誰でも新しく創造されたものなのです。古いものが過ぎ去り新しいものが生じた。やってみたらわかるということです。6章では和解の使者になりなさいと言われます。2節で、タイミングを逃してはいけない、やってみたら主の時かどうかわかります。清いプライド、自画像を持ちなさい。7章では彼らを傷つけたことに対する弁明が書かれます。彼らを本当に愛する気持ちです。信仰は愛によってチェックされないといけません。8章から9章はけちなコリント教会に対する叱責です。エルサレムが大変な状況のとき、他の教会はお金を差し出したにもかかわらず、コリント教会は行いませんでした。8章2節、苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度のまずしさがあふれ出て、人に惜しまず豊かさとなった。これは信仰の体験がなければわからないことです。コリント教会は知識も賜物も経済もすべて整えられたにもかかわらず行わなかったのです。マケドニアの教会も見習いなさいと言われました。悔い改めは実を結ばなければ悔い改めではありません。悔い改めにふさわしい実を結べと書かれています。
10章11章では、パウロの愛にもかかわらず、パウロを非難して貶めたことを指摘します。偽預言者たちは、パウロは言葉は弱く出身もいい加減で実力がないと批判しました。それに対してパウロが弁明します。ヘブライ人であり、生まれながらのローマ市民権がありと自己弁護します。しかし、そのようなことを自慢するのは好まず、どれだけキリストために苦しんだかを語ります。当時のむち打ちは一回間違って打たれるだけで即死するほどのものを39回×5回もムチ打たれました。

ヨーロッパはかつて山賊があふれる野蛮な地域でしたが、福音が伝わったことで文明が生まれ先進国に発展しました。日本にも福音が伝わって霊的にも豊かな国になることを祈ります。

コリント教会での偽預言者たちによるパウロへの批判


■2013/04/18
■ヨハン早稲田キリスト教会 モーニングチャペル
■聖書箇所:コリント第二11:16−33

★メッセンジ

人々は使徒パウロの使徒としての正当性を何度も疑い批判しました。どこからきたのか、どういう人なのか、イエス様に会ったこともないのに使徒として認められるのか、と疑いました。そのたびにパウロは弁明しなければなりませんでした。聖書には、先にいる者が後になり後にいる者が先になる、という言葉があります。使徒パウロは一番後の使徒ですが、最も用いられるものとなりました。
偽預言者が現れてそれに対抗することに多くの力を注ぐ必要がありました。偽預言者たちは自分の血統や出身、学歴を誇りました。パウロはどの条件においても彼らに劣ることはありませんでした。しかしパウロはそれらを誇ることがありませんでした。逆説的ではありますが、自分の弱さが偽預言者に対する武器になります。パウロは福音を伝える過程で物理的に受けた傷を誇りました。キリストのの兵士はキリストのために受けた傷を誇るものです。苦労や傷自体が善いことではありませんが、キリストのために十字架の苦しみを背負うことを誇り喜びと考えましょう。神の国においては謙遜になる者が最高の賞を受けます。
私の弱さが現れて主の強さが表に現れるように、使徒パウロのように生きることができるように、キリストのために受けられた傷を誇ることができるように祈りましょう。キリストだけが崇められますように。

2013年4月16日火曜日

コリント教会での偽使徒の問題


■2013/04/16
■ヨハン早稲田キリスト教会 モーニングチャペル
■聖書箇所:コリント第二10:1−17

★メッセンジ

コリント教会には偽使徒がたくさん現れて問題となっていました。
1節 キリストの優しさと心の広さを持って  パウロは偽使徒のために非常に怒りを覚えていましたが、それを抑え、優しさをもってコリントの信徒たちに臨みました。パウロの優しさというよりもむしろキリストの優しさです。クリスチャンは怒りではなく優しさを持って教え諭さなければいけません。
2節 勇敢に立ち向かうつもりです  優しさを持つからといって、悪に対しては毅然と勇敢に立ち向かうべきです。
3-4節 私たちは霊の武具を身につけて悪と戦いましょう。それは要塞も破壊するに足ります。持っていても使わなければ宝の持ち腐れです。霊の武具を身につけて勝利しましょう。

7節 うわべのことだけ見ています  パウロは病気であり容姿も良いものではなかったため、外見は一見弱く見えることもありました。しかし、だからといって心も弱くなったのではありません。8節 造り上げるために主が与えて下さった  私たちに与えられた賜物は人を造り上げるためのものですから、人を造り上げていきましょう。

12節 自己推薦する者たちと・・・  限度を超えて自分を誇ろうとする者たちのことです。このような態度は高慢でありパウロは厳しく諭されました。自分が持っているもの、自分が成し遂げたものを、すべて主がして下さったと誇りましょう。

2013年4月14日日曜日

夫婦の関係は同等

■2013/04/14
■ヨハン早稲田キリスト教会 主日礼拝
■タイトル:夫婦に対する主の御言葉の指針
      ペトロの手紙講解8
■聖書箇所:ペトロの手紙一3:1−7

★メッセンジ

主との関係は垂直関係であり、その他、同僚、友人、家族などの人間関係は水平関係といいます。
2:13-17 国家の指導者たちに対しても、たとえキリスト教へ反対的な立場を持っている人に対しても、クリスチャンは柔和な態度で臨みなさいというのが主イエスキリストの教えです。かつて、徳川幕府の時代、長崎にてカトリック信徒たちに対して激しい迫害が加えられ、それに耐えきれなかった人々が反乱を起こし、鎮圧されて多くの人々が殺害され、さらにその後キリスト教徒は危険な人々というレッテルを貼られて徹底的に迫害されることになりました。クリスチャンは指導者や国家に対して物理的に抵抗することはしてはいけません。
2:18-25 どんな主人にも従いなさい

1. 夫婦は同等であることを悟らなければなりません
創世記1:26 神はご自分に似せて人を創造されました。最初に男のアダムを創造され、人は一人でいるのはよくないといわれ、次に助ける人、女であるイブを創造されました。助ける人は助けられる人よりも優秀である必要があります。女性は自信を持ちましょう。神様は男のあばら骨をとって女を作られました。あばら骨は心臓と肺を守る重要な骨であり、最も大切なところを守るべき骨で作られたのが女です。あなたは私の骨の骨、肉の肉という表現は最高の愛情表現です。
夫婦は裸であったが恥ずかしがりませんでした。罪を犯していなかったからです。人が罪を犯してからは罪悪感にとらわれ自らの裸の体を恥ずかしがるようになりました。しかし、イエスキリストによる罪の贖いを通して、自分の子孫だけではなく祖先に至るまで罪が赦されたと確信しましょう。聖書の御言葉に額面通りに従います。ときどき従えないこともありますが、主が万事を益として下さり引き上げて下さることに感謝しましょう。
マラキ2:14 アブラハムはサラ以外の女からも子供を産みましたが、主はサラから生まれた子だけを認めて下さいました。不倫による関係は主は認められません。離婚することは認められていません。主が結び合わせて下さった夫婦であるからです。

2. 妻たちへの主の命令
1ー6節 かつて家庭で夫は主人であり妻は奴隷でした。このような間違った関係を子供たちが見て大人になるとまた同じ過ちを繰り返します。主はこの間違った関係を徹底的に否定されました。男と女は同等な存在です。当時、妻がクリスチャンで夫がノンクリスチャンである場合が多くありました。ノンクリスチャンの夫であっても夫に従順しなさいといい、その他は服従しなさいといわれました。従順は心から喜んで従うことであり、服従は心から喜ばなくても従うことです。軍隊では納得するかどうかは関係なただ従う必要があります。
妻たちよ、主に従うように夫に従いなさいと言われます。1節 夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。家族、親戚の場合は言葉によるよりも行いが変わることで信仰を持つケースが多いです。兄から迫害され、書物や衣類まですべて焼かれたこともありましたが、そのお兄さんが現在アメリカの大きな教会の長老になったという例もあります。
3節 装いは、派手な衣服といった外面的なものであってはいけません。女性がきれいになりたいという願望は主から与えられたものであり、きれいになろうとすることは良いことですが、それで夫も救いに導こうとしてもうまくいかないという意味です。内面の変化によって救うことができます。最高の老後の保険は、普段から妻を大切にしよくしてあげることです。どんなにお金を稼いでも老後は一人になり寂しいものです。
5,6節 アブラハムの妻サラもそのように夫に対して服従しました。人の妻を奪って男を殺してしまうような悪い民族のところにいくとき、アブラハムはサラに妻ではなく妹と言ってほしいと頼み、サラはその通りにしました。イサクの妻リベカもそのようにしました。信仰が良く人格的に優れた妻をもらうことは男性によって最高の祝福です。

3. 夫たちへの主の命令
7節 夫たちよ、妻を自分よりも弱いものとわきわえて生活し、尊敬しなさい  愛し合いなさいというレベルでなく尊敬しなさいと言っています。かつての携帯電話は、電話をかける受ける機能しかありませんでしたが、頑丈で落としても壊れませんでした。最近のスマートフォンは機能は複雑ですが簡単に壊れてしまいます。昔の携帯が男なら、スマートフォンが女です。女性は複雑な体の仕組みをしていますので大切にしなければいけません。妻をバカにするならば夫の祈りが妨げられてしまうでしょう。家庭の最も基本的な関係は夫婦関係です。

2013年4月13日土曜日

主の御旨を知り歩む

■2013/04/13
■ヨハン早稲田キリスト教会 土曜礼拝
■聖書箇所:民数記9:15−23

★メッセンジ

新生活が始まると不安を感じる人もいます。新しい人間関係、職場、キャンパスなどストレスもあります。しかし、主イエスキリストが共におられることは変わらない真理です。15節 雲が天幕の幕屋を覆い朝まで燃える火のように見えた。主がとどまりなさいというなら、とどまらなければいけないし、主が行きなさいというなら、いかなければいけません。キリストが復活したときも弟子たちはすぐに行きたい気持ちだったかもしれませんが、聖霊が臨むまでとどまりました。私たちは主の言葉に従って歩みましょう。
祈りと御言葉は聞き従うことです。どんなに御言葉を読んで聞いても従わなければ意味がありません。私たちが喜んで聞き従う時、主も喜ばれます。ぜひ証があふれる生活になりましょう。自分をいなごのように弱いものだと考えないで下さい。確かに主がいかければそうですが、主が共にいれば勝利できます。いなごのような考えを捨てて主に従いましょう。

主の御旨を知りしたがいましょう。私たちは自分の働きが多ければ祝福され働きが小さいと祝福されないと考えることがありますが、決してそうではありません。主は人の働きによらず強めて下さいます。時には強い人を弱められることもあります。主が働かれて成し遂げられるのが私たちの信仰生活です。
イスラエルの民はエリコの城を何回も周りました。人間的にただ城の周りを回ることは意味がないでしょう。ただ、主がそう言われたので従順して行った結果、主はエリコの城を渡して下さいました。主はその一人を通して御旨を成し遂げて下さいます。
新しいことを始めようとするとき不安でいっぱいになって閉じこもってしまう人もいます。しかし、そのような時にこそ教会に来て主の御言葉で恵まれましょう。主の中で一つになりましょう。もしなかなか成長しないのなら私が主と一つになっているか再確認して悔い改めるましょう。主の中で一つになるとき、個人もグループも成長します。

私たちが足りないとき、互いに愛し教会を愛し歩んでいきましょう。今、つまずいていることがあるかもしれませんが、それも主の御手の中にあります。幕屋を大切にして行ったイスラエルの民の姿は私たちの姿でもあります。火の柱が立ったように私たちの内にも証があふれることを信じます。

2013年4月11日木曜日

苦難中慰める神様

■2013/04/11
■ヨハン早稲田キリスト教会 BibleStudy
■タイトル:苦難中慰める神様
■聖書箇所:コリント信徒への手紙二1:1-11

★BibleStudy

苦難の中でも主と共に歩みたいとのぞんでいるクリスチャンおよび教会にとって、この御言葉はふさわしいところでしょう。
パウロは、テモテを兄弟と呼び、共に差出人としながら、コリントの人々とすべてのクリスチャンに向けて手紙を書いています。
聖霊は私たちにも恵みと平和を約束されておられます。

手紙では普通自分たちのことを書くものですが、パウロの手紙ではまず神様のことについて、この方がどんな方であるかを書いています。神様はこの苦難を通して何をなそうとしておられるのか、そういう視点から書いています。同じ苦難を見ても、絶望する人がいれば、喜びとする人もいます。私たちはイエスキリストとつながっているときだけ神様を父と呼ぶことができます。他にも神を信じる人はたくさんいますが、私たちにも慰めを与えて下さる方であるとどうして確信が持てるのでしょうか?むしろそれらの神は悪の存在であり私たちにも恐怖と絶望をもたらします。

4節 まず私たちが慰めを受けたことについて証していきましょう。主の慰めを伝えていくことが伝道となります。
キリストと一致している者は、キリストが苦しむ時その苦しみも一緒に受けますが、キリストが慰めを受けるとき、共に慰めを受けます。キリストのために心痛かったことがあったり、キリストのために大変な経験をしたことがあるならば、私たちはキリストにつながっている者です。使徒パウロとコリントの信徒たちは物理的には距離が離れていましたので、何の慰めになるでしょうか。しかし、物理的な距離が離れていても霊的な一致は同じです。
私たちの苦しみは元を正せば理解できないものです。苦しみを原点をたどればイエスキリストの苦しみは理解できないのです。その不条理な苦しみを全部受けたのがイエスキリストです。苦しみを乗り越えていくことができる力を与えられます。

8節 パウロが受けた苦しみは生きる望みさえ失うほどのものであり死の宣告を受けた思いでした。が、外から来る圧迫によって倒れることはあまりありません。韓国で戦争中、クリスチャンはあらゆる苦しみを受けましたが、それで信仰がなくなることはなくむしろ強められ、大きなリバイバルにつながりました。苦しみを通して働かれる神様です。自分の罪によって苦しむときも主は恵みを与えられます。キリストのために嘲られ頬を打たれたことはあるでしょうか?

嵐の中でも主は見守られる

■2013/04/11
■ヨハン早稲田キリスト教会 木曜礼拝
■聖書箇所:マタイ8:23−27

★メッセンジ

弟子たちは船に乗り込んだら激しい嵐に襲われました。このような突然予測しなかったことは私たちにも起こり得ます。洗礼を受けてこれからの信仰生活に期待していたら、事故や病気に会うこともあります。そうであっても主は乗り越えられる力を与えて下さることが多いです。人生は大変なものですが、イエスキリストを信じる者にはそれを乗り越えられる力があります。それが証です。あなたの人生の中心にイエスキリストが入って下さると喜びがあふれ自信が生まれます。それがイエスキリストの証です。
25節 弟子たちは「助けて下さい、溺れそうです」と叫びました。彼らの中には漁師が多いです。何十年も漁に出て海と向き合ってきた者が多いのです。船乗りのベテランたちが、助けて下さいと言うのは、単純な感情的な言及だけではありません。船乗りのプロが溺れそうだと言うのならば、本当に危機である証拠です。彼らは安全な波なのか危ない涙なのかはすぐ区別がつくはずです。ペテロもヤコブもアンデレもヤコブもプロであるのに助けを求めるのは絶望的な状況です。彼らは自分の経験から判断しましたが、一つ大切なことを忘れていました。主イエスキリストが一緒に船に乗っているということです。

100億円の売上をあげている会社があるとき財政危機に陥りました。今すぐにも倒産してしまうかもしれない状況になりました。社長は銀行に融資をもらいにいくとき、喉がからからに渇いて言葉が出てこなくなるほどでした。しかし、マタイ8:26を読んだとたんに、突然、力が湧いてきて、銀行に対して一週間でお金を用意するように、また利子を下げるように要求しました。それまでは、多くの人に頭を下げてみじめな思いをしてきたのに、一気に怖さが吹き飛び大胆に要求しました。翌週になんと担当者から要求額を用意する、利子は検討しましょうという回答がありました。主が成し遂げて下さったのです。状況的に経験上、もう終わりだと思えるときでも、主が終わりと認められるまでは終わりではありません。

本当に死にそうな嵐の中でも主イエス様は砂袋を枕にしてぐっすりと寝ていました。非常に疲れていたのでしょう。「なぜ怖がるのか。」と怒鳴ったとたんに嵐は静まりました。私たちももし何かを怖れているのならば、自分に対して「なぜ怖がるのか」と叱りましょう。27節 風や湖さえも従うではないかと言いました。濃縮された蓄積された証がないとすぐ弱くなってしまいます。小さなことでも大きなことでも証を蓄積していきましょう。

2013年4月10日水曜日

靴ずれを我慢する

■2013/04/10
■ヨハン早稲田キリスト教会 モーニングチャペル
■聖書箇所:コリント第二5:11−21

★メッセンジ
以前は罪の奴隷でしたが今はキリストの自由の中に生きています。
14節 キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。
キリストのために生きることはどれほど素晴らしく生き生きとしていることでしょうか。
ある人は何かに追い立てられて生きています。どんなに走っても自分のために生きているならば自分の問題ゆえに苦しみます。ある人は就職活動による不安から不眠症になって睡眠薬を飲まなければいけないほどになってしまいます。心の病に至るストレスにかかっています。このような人たちには御言葉が必要です。
私たちは神様の栄光のため、キリストのために生きる決心をして歩みましょう。どのように生きるかは主が導いて下さいます。

17節 キリストと結ばれる人は誰でも新しく想像された者なのです。古いものは過ぎ去り新しいものが生じた。
それにもかかわらず、自らを傷つける行為によって新しい関係を捨ててしまおうとしている場合があるのではないでしょうか?新しいものに変わる時はある程度、困難も伴います。古い靴から新しい靴に変えるときには靴擦れがおこることがあります。だからといって新しい靴を捨てるでしょうか。少し我慢すれば足が新しい靴に順応し靴擦れも解決されます。それと同じように、新しい自分に変わる時、困難もありますが、それを乗り越えるとき本当に新しい自分に再生されるのです。

救いの使者として今日私たちが用いられることを祈って出かけましょう。

2013年4月7日日曜日

復活後、弟子たちに会ったイエス様


■2013/04/07
■ヨハン早稲田キリスト教会 主日礼拝
■タイトル:復活後、弟子たちに会ったイエス様
■聖書箇所:ルカ24:36−49

★メッセンジ

1.叱らず慰めて下さいます
主イエス様が十字架につけられて死に葬られた後、弟子たちは散り散りになってしまいましたが、主はいったんイエスキリストを信じた人々をあきらめず最後まで導い  て下さいます。
ヨハネ20:27 イエス様はトマスに自分の脇腹に手をいれて見るようにいいました。トマスは実際主義者であり、実際に見ないと信じない人たちです。主はそんなトマスにも優しく対応しますが、そういう信仰を改めるように進めています。ペトロは自分で墓が空いていることも確認し女たちから話を聞いているにもかかわらず、何人かを連れて漁に戻り、一匹をとれずにいました。そのとき、イエス様が来られて出会って下さいます。そして153匹の魚を与えてくれました。
主イエス様は私たちの隅々までご存知であられます。困っている私たちに主は出会って下さると信じて、落胆してはいけません。今、主が省みて助けて下さります。就職先や結婚相手に困っているいるでしょうか。今、主が備えて下さっていますので期待しましょう。
ある会社が「サレム」という名前をつけた。英語の「シャローム」です。イエスキリストの十字架の血潮の贖いによる救いの確信がシャロームの出発です。我々はイエスキリストの花嫁となりました。天国では男女の区別はありません。霊的、精神的、人間的なあらゆる祝福を主は与えて下さいます。シャロームは父なる神様と私たちとの完全な回復です。全くつまずきはありません。皆、孫が可愛いのと同じように、父なる神様もアダムの子孫を愛しています。その代が進めば進むほど主の愛は深まっていきます。作り変えられた人は歩きから変わってきます。意気揚々と歩きます。そういう人々を姿にするのは牧会者としての喜びであります。ヨハン教会でもそのような信徒たちがたくさん見られて感謝です。

2.信仰のある者になりなさいと言われます
他の宗教の指導者たちは皆自分の罪ゆえに死んで終わりました。誰も蘇られた人はいません。ただ、主イエスキリストだけが完全な復活を遂げ、体の質まで変化されて生き返られました。しかし、弟子たちはイエスキリストの復活を当初は信じませんでした。バルナバはイエスキリストに出会ったという人の証言を聞いても信じませんでしたが、道を行く途中に主が出会って下さいました。
マタイ5:17、ヘブライ4:12、ヨハネ14:21、詩篇1:1−3 主につながっている者は豊かに実を結びすべて繁栄をもたらす、職場に遣わされた人はその証を経験していきましょう。

3.新しく永遠の使命を与えて下さいます
ルカ24:48、ヨハネ21:15 主はペテロに対して何かを問いただしたりはせず愛しているかと聞かれました。
上を向いて歩こう、という日本で有名な曲があり、アジアの曲としても大ヒットとなりました。この曲を聞くと高揚感があります。このように主を見上げて歩きましょう。
おとめのたとえで5人は油を備えていましたが他の5人は備えていませんでした。備えがない人は用いられません。
タラントのたとえでは、5タラント与えられて儲けた人をたいへん褒めましたが、1タラント与えられて隠しておいたものを大変に叱られました。
私の兄弟の中で最も小さい者に大事にしたことは、主イエスキリストにすべてをしたことと同じです。
コリント第一15:53 人々が蘇られてからの賞は違います、クリスチャンは生きている間、最善を尽くして主に従いなさい

2013年4月6日土曜日

いなご根性


■2013/04/06
■ヨハン早稲田キリスト教会 土曜礼拝
■聖書箇所:民数記13:17ー33

★メッセンジ

いなご根性とは自分は小さく何をやってもだめだと思ってしまう考え方です。いなご根性ゆえになかなか前に進めないことがあるのではないのでしょうか?自分の経験や見たものだけに囚われてしまって縮こまってしまいます。
カナンの地を偵察した彼らは  皆その地が豊かな地であると認めましたが、しかしと否定の言葉を言ってしまいました。神様が約束して下さった場所であるにもかかわらず無理だと否定してしまうのです。何か問題に当たったときにいつも負けてしまう人はできない理由ばかりを考えてしまう人です。一方、勝利する人はできる理由を考える人です。できる力は共にして下さる主が与えて下さいます。
いなご根性やこの世の法則にとらわれず、主なる神様を信じましょう。新しい生活やいろいろな場所で主と共に歩んでいきましょう。

できない理由を考える人はさらに悪いことに自分と同じ意見を持つ人を増やそうとします。できないことに確信は持てませんので、できると言った人がもし本当にできてしまったら大変なことです。そこで、できると言った人まで巻き込んでできないと言わせようとするのです。大変悪質なことです。このような者にならないようにしましょう。

第二に、主の御心を考えましょう。カナンの人々と戦う時、良く分析し戦略を立てて最善を尽くして戦いなさいと主は命じておられます。しかし、先発隊のうち10人は自分が偵察に行った理由を忘れてしまいました。神様の意図を読めず理解しようとしませんでした。ヨハン教会の私たちは主の御心を読もうと心を尽くしているのでしょうか?忍耐すべきときに忍耐できず落ち込んでしまったら、この10人と同じになってしまいます。神様の御技が現れるまであきらめてしまったら御技も起こらないのです。神様が偵察隊を派遣したのは希望を与えて戦略を練らせるためです。しかし、民は殺されるくらいならエジプトに戻ろうとさえ言い出します。何か問題があると元に戻ろうとします。主の力を信じていきましょう。

最後に、神様の御心を信じて必ず勝てますという意気込みをもっていきましょう。でも、しかし、だってという否定の言葉が出てしまうと要注意です。アメリカでは、Thank you、Nice Ideaという言葉をよく聞かれます。店で何か買うときThank Youと言われますし、食べ物を選んだだけでGood Choiceと言われます。ちょっとしたことでも肯定的な口癖が身についているようです。これはキリスト教精神から現れるものではないでしょう。アメリカ人はディベート力が高いと言われますが、それは技術面が良いだけでなく、日常からお互いの意見を肯定する考え方を持っていますので、自分の考えに自信も持っているからです。
カレブのようにヨシュアのように励ます人になりましょう。それがクリスチャンの性質です。いなご根性で負けてしまうかもと考える前に、主が勝利させて下さるように祈るようになりましょう。からし種の信仰を持つ者を主は必ず助けて下さいます。

コリント信徒への手紙


■2013/04/04
■ヨハン教会 モーニングチャペル
■聖書箇所:第二コリント1:1-11

★メッセージ

叱責されたコリントの信徒たちが離れてしまうのではないかとパウロは心配していましたが、むしろ悔い改めて信仰を新たにしていることを聞いてパウロは喜んでいます。しかし、偽教師たちが出現して惑わしていることを聞き警告を与えています。

第一に召命感を新たにしましょう。
1節 神の御心によってキリスト・イエスの使途とされたパウロから・・・ パウロが召命を受けたように私たちも主から召命を受けました。

第二にキリストの苦しみを覚えましょう。
クリスチャンの私たちも苦しみを負うことがありますが、それは主の栄光が現れるためです。生まれつきの目に見えない人の理由を人墓とが聞いたとき、イエス様は神の栄光が現れるためであると言われました。5節 キリストの苦しみが満ちあふれて私たちにも及んでいるのと同じようにわたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれています。私たちが苦しむとき主が慰められます。私たちが苦しむ時、主の声は叫び声に変わります。
最後に、主に希望をかけて祈りましょう。
私たちが切に祈る時、主は答えられます。溺れている人を助けるとき、手足をバタバタしている時に助けてはいけません。助ける人も巻き込まれてしまうからです。力が尽きてきて本当に溺れそうになるかどうかのときに助けるのが良いです。このように、主は私たちが力尽きてきて主の前に投げ出して切に祈る時、答えられます。主がわたしの祈りに答えてくださることを確信して手をあげて祈りましょう。

2013年4月4日木曜日

パラドックスの人生を生きる新しい被造物


■2013/04/04
■ヨハン早稲田キリスト教会 BibleStudy
■タイトル:パラドックスの人生を生きる新しい被造物
■聖書箇所:コリント信徒への手紙二

★BibleStudy

聖書に登場する手紙は、手紙の送り手、受け手、どちらかの立場で書かれます。

教会に対して外からの迫害があることは当たり前であり、むしろ輝かしいことです。コリント教会を苦しめたのはむしろ内側からの攻撃でした。コリント信徒への手紙第一を読みますと、分派の問題が書かれています。全員がキリスト派であるはずですが、私はペテロは派だとかアポロ派だとか分裂をします。コリントの外から来た人たちは言葉も異なり文化も違うわけで差別されるなど、いろいろな問題が起こりました。そのような問題ばかりにとらわれるのは問題ですので、執事を立て教職者は祈りと御言葉に専念するようにしました。姦淫や派閥争いなど教会の中の問題は教会を弱め分裂させます。
教会では未信者との交際が自由に行われていました。未信者との結婚や交友が当たり前のようであったため、まずそれらをやめさせました。
教会の閉鎖性も問題でした。使徒パウロはエルサレムとユダの教会をいつも心に思っていましたが、その助けとなることが難しかったです。

使徒パウロの行き先の変更に対する説明がこの手紙の理解へとつながります。
塩野七生さんのローマのシリーズを読むと驚かれます。ローマはその地に進出するとき必ず道路を作りました。
今回ローマカトリックの法王に選ばれたのは非ヨーロッパであるアルゼンチン人でした。ローマカトリックは今内部に大きな問題を抱えています。カトリック教会にて司祭は結婚せず男性が行い、教会内で奉仕するのも男の子に任せましたが、男の子たちに対するセクシャルハラスメントが大きな問題となっていました。バチカンは大きな街を形成し、法王は権力の象徴となっています。前の法王は退いて近くの住居に戻る時、ヘリコプターに乗って行きました。カトリック教会では、昇天されたイエスキリストを表現していると釈明していますが、どう考えてもやりすぎでしょう。

使徒パウロを通して神の怒りが表現されます。パウロがもしコリントに行ったら容赦しないと裁きの心で書くのですが、実際には行かずに手紙にしたためて憂いの心で臨みます。
使徒の職分は栄光であるから落胆しないと言っています。パウロの人生は嵐にあったり石を投げつけられたり決して楽なものではありませんでした。自分に言い聞かせるように言ったのかもしれません。キリストのために働きをする者になりましょう。

教会における二つの模範を示しています。一つは貧しい中でも豊かに施しを行うマケドニア教会について述べており、もう一つは豊かでありながら貧しくなられたイエスキリストについてです。
私はキリストに拘束されているでしょうか?自由の中にある人間は罪の奴隷のようですが、罪を赦していただく者は本当の自由を得ます。キリストだけが和解者です。キリストは和解させて下さる方であると同時に裁かれる方でもあります。
私たちは世の中とは区別されています。聖霊で満たされましょう。中に罪がないか清く保っているか確認しましょう。

マケドニア教会は貧しい人が多かったのですが積極的に献金を行い人々に施しました。一方、コリント教会は非常に富んでいたはずなのですが争いが絶えず施しにも消極でした。

群れと弟子の違い


■2013/04/04
■ヨハン早稲田キリスト教会 木曜礼拝
■聖書箇所:ヨハネ21:15-25

★メッセージ

使徒ペテロは何人かの弟子を連れて昔の漁師の生活に戻ってしまいました漁に出ましたが一匹も魚がとれませんでした。イエスが現れ網をおろしてみなさいと言われその通りにしたら153匹の魚がとれました。主はペトロに三度愛するかと聞かれます。一度目は普通の友達の愛です。羊を飼いなさいとは世話をしなさいという意味です。2度目の愛は友情のより強い愛です。3度目の愛はイエスキリストのアガペーの愛です。この箇所はよくメッセージに用いられます。

イエスキリストが復活してから昇天するまでの40日間は伝道的なメッセージを一度もされず、ただ弟子たちに語られました。十字架につけられる前、あらゆる人々に差別することなくメッセージをされました、自分の利益のために集まってきて聞く者たちは群れです。群れは不満があるとすぐにぶつぶつ不平を言い何か大変なことがあれば離れ去っていきます。イエスキリストの苦難を見て私も共にしたいと従ってくる者が弟子です。
会社に勤めていても昼休みや休憩時間など時間はいくらでもあるはずです。ヨハネやダニエルはどんなに周りから変な目で見られようが主の教えを守り主を伝えました。現代の多くの信徒たちには群れに陥る傾向があります。主の弟子となりましょう。

ペトロは三度もイエスキリストを否定しましたがイエスキリストは一度もそのことでペトロを叱ったことはありません。イエスキリストは自分の命をも惜まず私たちを愛してくださったからです。ローマ8:32 御子をさえ惜まず死に渡された方は、御子と一緒に私たちにもすべてを賜らないはずがありましょうか。第一ヨハネ4:7 愛することのない者は神を知りません。ペトロは自分の失敗を認めて謙遜になり、自分はせいぜい友情くらいの愛でか主を愛せなかったと告白しています。

主は家庭を国家、民族よりも大切にされます。天地創造のあとアダムとイブを想像し家庭を作られました。その後、家庭に罪が入りましたが。家庭のモデルが教会です。夫婦のエロスは祝福されますが、夫婦以外のエロスに惑わされてはいけません。社会での男女関係に気をつけましょう。関係を持ってしまったら誰が責任をとれるのでしょうか。夫婦の間、親子の間、友人・同僚との間でルールを守ることが重要です。クリスチャンは生きていること自体が証です。言葉で語るだけではありません。あの行いこそまさにクリスチャンだと言われたいものです。リーダーほど罪に陥りやすいですので、気をつけましょう。
日本には恥という概念はありますが、罪という概念がありません。神との垂直的な関係がないところには罪という概念がありません。恥は、誰かにばれなければいいのです。

18節 ペテロの最後の姿が預言されます。使命感を持って生きていきましょう。それは生きたいところに行って行きたくないところには行かないというものではなく、どこへでも主が望まれるところに行くことです。三回伝道旅行に行きその後ローマに連れていかれて殉教しました。人は召されたら生涯の責任を問われます。あなたにメッセンジャーを遣わしたのになぜ聞かず行わなかったと問われるでしょう。
主から言われたときペテロは、ヨハネを見てこの人はどうなるのかと質問しましたが主から叱られました。比較的な行いはやめましょう。
アメリカではビジネスをしているクリスチャンは世界にどれほど教会や学校を建てたと言って証をします、Forever21の社長の奥さんも結婚してから救われましたが今その祝福は限りないほどです。日本ではクリスチャンの実業家や教授もいますが、私はいろいろあって恵まれましたという証しかしません、彼らは群れでしかないのです。
主は愛したい者を徹底的に愛して祝福してくださいます。使命をもって生き主の喜びとなりましょう。

2013年4月2日火曜日

ペテロのような弟子

■2013/04/02
■ヨハン教会 モーニングチャペル
■聖書箇所:ヨハネ21:1-14

★メッセージ

実をたくさん結んでこそ弟子であります。自己満足に陥らないようにしてください。自己満足する人はすべてが喜びであると勘違いしていることがあります。自己主義です。クリスチャンホームに育った人にこのような傾向がある人が多いです。聖霊に従って歩む人には、ときに喜べない人生もあります。本気で行えばときに疲れますし、命をかけて行うからです。

ペテロは悔い改める人でした。イエスキリストが捕らわれたとき主を三度知らないと言ってしまいましたが、イエスキリストの復活後、悔い改めて最後はローマで殉教しました。天国に希望があるなら他に何が欲しいのでしょうか?何に満たされればもっと満足するのでしょうか?ミスのない人間はいません。ペテロは一度の過ちを通して二度と同じ過ちを犯さない人でした。私たちは何度同じ過ちを犯すことでしょうか。決定的なところで逃げてしまう人がいます。このようにならないようにして下さい。すでに悔い改めて身震いしている人に対しては叱らないで下さい。むしろ、激励して励まして下さい。しかし、まだ自己中心的な人は叱らなければいけません。
いつも同じ罪を犯す私たちを見て主はどれほど悲しまれるでしょうか。新年度になって二度と同じ過ちを犯さないように助けてください。

2013年4月1日月曜日

イースター明けの早天

■2013/04/01
■ヨハン教会 モーニングチャペル
■聖書箇所:ヨハネ20:19-31

★メッセージ
今日は特別な意味での早天礼拝です。イースター直後の早天であり、また日本の会計年度の新しい日の早天です。年の初めには断食をして備えましたが、三ヶ月間準備期間としてくださいました。キリストと共に死にキリストと共に生きることであったと信じます。

モーセは十戒を授かるとき40日40夜断食をしました。イエスキリストが働きを始める時も40日断食をしました。イエス様が復活した後に40日後に昇天されました。そして、聖霊を送られました。もしイエス様が体をもって伝道したらどれほどの人に会うことができるでしょう。しかし、聖霊はすべての人に会うことができます。
昇天までの40日の間の主の働きはどうだったのでしょう。イエス様の死で弟子たちは打ちひしがれていました。誰かの後ろに隠れていました。私たちも仕事に隠れることがあります。このような弱き私たちを主はどのように強められるのでしょうか。

まず第一にイエス様は平和を授けられます。クリスチャンでしか理解できない平和です。イエス様は父なる神様との関係が完璧でしたが、私たちは主との関係が正しくないことを知らず歩んできました。聖霊に満たされてからは完全な関係に回復されたのですが、まだイエス様のようにはいかず、何か隔たりを感じながら生きています。平和とは万時が益となる神様の祝福ですが、私たちの元に戻ってしまう古き体質も知っておられます。神様の平和に満たされることを祈りましょう。
何かあったときに人々を惑わすことや、苦難のときにどうしてですかと不平を言うのは平和ではありません。苦難の時にも主が私を用いて下さることに感謝するのが平和です。平和を与えてくださる主に感謝しましょう。

第二に主は使命を授けられます。三ヶ月のウォーミングアップの期間に主の使命を忘れてはいないでしょうか?イエス様の公の三年間の歩みでは決して使命がぶれることはなく、十字架の受難へと向かっていました。その間に飢えている人を食べさせ、目の見えない人を見えるようにされました。すべての権限を父なる主から任されて行いました。私たちもそれぞれ遣わされる場所で使命をもって行いましょう。時を区別しないで下さい。いつでも福音を伝えます。自分の人格が備わってから、聖書を十分にマスターしてからという言い訳をしないで下さいました。ただ熱心にイエス様を伝えます。
イエス様は弟子たちと共にした40日間の間に、使命を覚えなさいと、また、罪を赦しなさいと言われました。罪を赦すということは、聖霊の働きを妨げないということです。代価を期待せず、ただでもらったものをただで分け与えなさいと言われました。信仰が足りないとつぶやいてしまいます。誰かを恨むのならばまだ人を赦していない証拠です。
主は30倍、60倍、100倍の祝福をしてくださる方です。少なくとも2倍の祝福をしてくださいます。人々からの迫害にも傷つかず使命をもって歩みましょう。

24〜29節はトマスに関する箇所です。見なければ信じないのかとイエス様が叱られています。このような信仰をもったまま牧師になった人たちも多くいます。そのため教団間の争いや様々なものが見られます。
私たちの内には人々の間で目立ちたいと思う人がいます。いつも何かも目立つような発言をわざとします。このような者は主に喜ばれません。
ときにイエス様との神秘的な体験をさせて下さることもありますが、それは長い間は続かず、現実に戻されます。その短い体験をもって、現実で勝利することを要求されます。
新年度、ヨハン教会でも復活の主とともに使命をもって歩みましょう。