2014年4月30日水曜日

霊的な熱気

◼2014/4/30
◼ヨハン早稲田キリスト教会 モーニングチャペル
◼聖書箇所:詩篇36:1−13

★メッセージ

霊的な熱気があればその勢いで常に喜びと感謝にあふれ、信仰的な決断ができます。お風呂に入った後は体に熱が残っているのでそのまま布団に入ってしまっても暖かいのと同じです。霊的な熱気がなければ人間的な不平不満が多く出てきます。みんなが祈らない時にも祈る人々は霊的に目を覚ましている人の特徴であります。
ダビデは非常に苦しい状況の中でも主を告白して賛美しています。主は羊飼い、私には何も欠けることがない。これがダビデの信仰の基準です。いくら文明が進んでも人間の力をはるかに超えていることがあり、それを主に委ねる姿勢が重要です。日本では医療技術が進んでいますが、それでもがんで亡くなっている人が年間で何十万人もいます。人間の科学的な力ではどうしようもないことが多くあることを謙遜に認めるべきです。

2節から5節までは悪を犯し続ける罪人を表現しています。そして、6節からは、主の慈しみと恵みを賛美します。甘美な流れとは大河のような勢いのある流れです。この恵みを受けて霊的な熱気を失うことなくあらゆる問題を今日一日乗り越えていけるように祈りましょう。

2014年4月27日日曜日

復活した主と私との関係

◼2014/4/27
◼ヨハン早稲田キリスト教会 主日礼拝
◼タイトル:復活した主と私との関係
◼聖書箇所:ヨハネ21:1−14
◼メッセンジャー:金圭東牧師

★メッセージ

主と私は一体された関係です。私たちが失敗した姿では主は喜ばれません。私が清められ回復された姿になることを主は望んでおられます。主はただ天の御座に座っているだけではありません。いつでも私のところに来られて助けて下さいます。
いつも主にあって喜びなさい。すべての人に寛容力を持って表しなさい。万事を益としてくださる主です。30倍、60倍、100倍の実を結ばせてくださり、そして旧約聖書では1000倍の祝福も書かれています。1000倍をさらに1000倍したら100万倍になります。ヨハン教会の皆さんもそのような祝福が望まれることを信じて大胆に歩みましょう。
日本人は底力がある民族と言われています。普段はできないと言いますが、いざやってみると最後までやりとげます。福音宣教においてもこの底力が生かされれば、日本は最後の宣教の働きに大きく用いられるでしょう。
主なしでは何もできませんが、主がいらっしゃれば何でもできます。ヘブライ13:5 決してあなたから離れないし、決して置き去りにしない。24時間365日、いつでもあなたも見守り助けられます。主は我々の人格を好きでいつも尊重して下さいます。我々は皆気質が違い、どれが良いとは断定できませんが、主はどの人をも愛して下さいます。

ヘブライ12:6 主は愛するものを鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。よその子は放っておきますが、自分の子であるならば、しっかり成長してほしいので、鍛錬を与えられます。ヘブライ12:11 鍛錬は最初は悲しいものと思われますが、後では義という平和に満ちた実を結ばせます。
蘇った主イエスキリストは我々と常に共におられます。我々のすべての罪を赦し勝利させて下さいます。

2014年4月24日木曜日

幸いな者

◼2014/4/24
◼ヨハン早稲田キリスト教会 BibleStudy
◼タイトル:幸いな者
◼聖書箇所:使徒32:1−11

★メッセージ

たいていな人は自分が罪人であることがわからず何を探しているのかわかりません。探し求めて自ら教会に来て恵まれる人はごくまれです。多くは何かのことで誘われて教会に来て最初は乗り気がしないかもしれませんが、徐々に御言葉で恵まれていきます。主は自らのもとに来られた人に対してまず罪の赦しを宣言して下さいます。悔い改める者は感謝と喜び、賛美があふれます。
詩篇は同じことを少し言葉を変えて表現されることが繰り返されます。幸いな者とは罪が赦された者のことです。罪には何パーセントという概念はありません。ゼロか一か、罪人であるか完全に赦されたかのどちらかです。

罪がある者はそれを隠そうとします。アダムも罪を隠そうとしました。人間は自分の罪を自分からも隠そうとします。現代では罪を病の問題にうまく転換してしまいます。病であればそれを指摘する人はいません。病はその人が悪くてなるのではなく不可抗力的なところがあるからです。キリストを信じる者もそうでない者も、キリストの前で罪を告白しなければ罪の苦しさから逃れることはできません。罪があることは苦しいことですが、逆にそれは良いことです。苦しいからこそ罪を悔い改めようとします。

主は私たちが主に不従順であったり疑いつぶやきをすることも認める受け入れて下さいます。イスラム教ではアラーの神に対しても不従順すすることが可能性としてさえ決してあってはなりません。完璧な信仰が要求されるのです。しかし、イエスキリストは私たちの弱さや罪も受け入れて下さいます。

信じることは何よりも才能ともいえます。子供はお母さんの乳の安全性を疑ったり、お父さんの言葉の真実性を疑ったりするでしょうか。そのまま信じて受け入れるのです。私たちは信仰で生きなければいけません。

雪国、春国、神の国

◼2014/4/24
◼ヨハン早稲田キリスト教会 木曜礼拝
◼聖書箇所:マタイ28:11−20
◼タイトル:

★メッセージ

現代は様々な事件や出来事があり混迷を極める時代です。このような時代においては使命を明確にすることが大切です。
見えるものでも見えないものでもいいですが、愛をこめることが大切です。
多くの人たちは最後に重要な言葉を残します。イエス様も最後に弟子たちに宣教命令を与えられました。
新潟に行く時には、トンネルをくぐると雪国が広がります。雪の白はすべてを清くする色です。そして、今までの人生が冬だったとしてもやがて春がやってきます。春国です。最後には神の国が到来するように期待します。

19節 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。私の弟子ではなくイエス様の弟子にしなさい。
ある韓国人の牧師はアフリカのマサイ族を伝道するために、言葉も文化もわからないままとにかく福音を伝えようとしました。とても無茶に思えましたが、やがて4000人のマサイ族を救った宣教師となりました。パウロのように信仰を持っていけば必ず主が約束された人が備えられていると信じます。パウロは行くところどころで大変な苦難に会いましたが、百人隊長など備えられている人に出会いました。ハドソンテーラーは中国宣教に行き、食べ物、衣服、生活スタイルを中国人と同化しながら福音を伝えました。
今の日本はアジアのローマというべく外国人がたくさんいます。日本にいて中国人、ベトナム人、ネパール人、あらゆる人々に福音を伝えることができます。

2014年4月21日月曜日

川崎にヨハン教会は?

ヨハン教会は日本全国各地に教会を開拓しています。中でも神奈川県には一番多くの教会がありまして、横浜をはじめとして、藤沢、相模原、本厚木と4つあります。横浜のヨハン教会は、さらに日本語の神奈川教会、韓国語の横浜教会、中国語のChinese教会でそれぞれ教会がわかれていますので、その区分で考えると6つになります。神奈川県だけで6つというのは断トツに多い数ですね。これも、ヨハン横浜教会の先生が熱く霊に燃えて主の働きをされているからだと思います。
さて、横浜といえば神奈川県の県庁所在地ですが、第二の都市は川崎です。平成26年4月の人口統計によれば、横浜市の人口は約370万人と圧倒的に多いですが、川崎市も約145万人とかなり大きな都市です。相模原市は約72万人、厚木市は約22万人ですので、これと比較しても大きいですね。でも、川崎にはヨハン教会はありません。それは単に人口の多い場所に教会を建てているというだけでなく、教会間の距離もある程度、念頭におきながら、開拓をしているからかもしれません。(あくまでも私の想像です。)
でも、全国に何百教会と建てられるのなら、川崎にもやがてはヨハン教会が建てられるのかもしれません。川崎は東西に意外と長いので、どこに建てるかはまた考えどころです。

2014年4月20日日曜日

イエス様の復活は永遠の復活は、真理の復活

◼2014/4/20
◼ヨハン早稲田キリスト教会 主日礼拝
◼タイトル:イエス様の復活は永遠の復活は、真理の復活
◼聖書箇所:マタイ28:1−10

★メッセージ

私を信じるものは死んでも生きるとイエスキリストは言われました。
聖書では死んだ者が生き返った事例はたくさんあります。エリシャは中年の女の子供を生き返らせました。イエスキリストも会堂長の娘やラザロを生き返らせました。
実存主義者のトマスは直接見て傷跡に手を入れてみなければイエス様の復活を信じないと言いましたので、イエス様は突然、弟子たちがいる部屋の中に現れ、トマスに傷口に手を入れてみるように言われました。それでトマスは信じましたが、見ないで信じる者は幸いであると言われています。
イエスキリストは私たちにあいまいな信仰を捨てるように言われました。今の体は朽ちて土に帰る体です。たとえ聖霊様が内住されていてもそうです。ですから罪を犯さないように絶えず目を覚まして祈り続けなければいけません。
この事実をまだ知らない人々に緊急で知らせなさいと命じられました。
最後に、イエス様は再臨を予言されました。

イエス様、復活!

◼2014/4/20
◼ヨハン早稲田キリスト教会 モーニングチャペル
◼聖書箇所:ルカ27:36−44

★メッセージ

イエス様は真に死から蘇えられました。イエス様以外にも幾人かが蘇っています。エリヤとエノクは生きたまま天にあげられました。イエス様をラザロを蘇えらせました。これらは復活の前兆です。
イエスキリストの復活はまた死んでしまうような中途半端な復活ではなく永遠の命に至る復活です。第一コリント15:20 イエスキリストは復活の初穂です。復活には順序があります。先に信じて死んだ者がまず復活し天にあげられます。次に生きている信徒たちが天にあげられます。その復活の体はイエスキリストの復活の体と同じです。もはや肉体的な制限はありません。天使たち以上の体が与えられます。永遠に存在しどこにも存在することができます。第一コリント15:41−44 復活の体は決して朽ちることのない完全な身体です。病気になることも決してなく聖霊に満たされた身体です。罪を犯したくても犯せない、いや罪を犯そうとする心さえ起こらない身体です。しかし幽霊のようでもなく実体がありイエスキリストは弟子と共に食事もされました。
イエスキリストは弟子に、必ず再び戻ってくると話されました。この世の私たちの体は、信じていない者たちと同じですので罪の誘惑があります。いつ主が来られても良いように備えましょう。もう一つは、すべての人々に福音を伝えられるように命じられました。病人を癒し、御言葉を伝え、イエスキリストの弟子を増やすように命じられました。

2014年4月18日金曜日

◼2014/4/18
◼ヨハン早稲田キリスト教会 モーニングチャペル
◼聖書箇所:マタイ27:45−56

★メッセージ

いよいよイエス様が非常に苦しまれた後死なれる場面です。イエス様は隣に十字架にかけられた死刑囚の一人に、あなたは楽園にいると言われました。
46節 なぜわたいしをお見捨てになったのですか。私たちの代わりにイエス様が完全に見捨てられました。そして、私たちが赦されました。ああ十字架、ああ十字架と賛美にある十字架は私たちの罪のためであります。その恵みを覚えて感謝しましょう。

★ハットポイント

死刑囚の一人は十字架につけられたときは、もう一人の死刑囚と一緒にイエス様を侮辱していたわけですが、途中から切にイエス様に救いを乞い、最後には赦され天の国に入ることになります。
これを読むと、今もなおイエス様に逆らい続ける身近な人が、死ぬ瞬間にでも悔い改めれば天国に行けるという希望になります。もちろん死ぬ瞬間よりもずっと前に救われたほうがもっと良い人生を送れますので、私の親や親せきや友人が早く恵みで救われるように祈るばかりです。

2014年4月17日木曜日

そのときあなたは何をしたのか

◼2014/4/17
◼ヨハン早稲田キリスト教会 木曜礼拝
◼聖書箇所:マタイ27:15−44
◼タイトル:そのときあなたは何をしたのか

★メッセージ

日本ではプロテスタントではっきりとした殉教者がいません。
聖餐式を参加したとしても人間は続けて罪を犯してしまいました。
日本は自然も風土も素晴らしいものがあります。人の性質も素晴らしいです。ただし、個人的にはです。集団になると方向を見失い過ちを犯すことが多いです。
殉教は天の国での最大の報いですが、誰にでも殉教させるものではありません。殉教は一部の人だけに主が与えられたものです。
私より凶悪なものはありません、という告白があるように祈ります。

★ハットポイント

確かに日本人は個人的には誠実で真面目で人柄も良い人もとても多いのですが、国や企業の単位になると、いろいろな問題が発生してしまうように思われます。私がもといた会社でも優秀で素晴らしい人はたくさんいるのに全体になるとなぜか足を引っ張り合ってうまくいかないのですね。
やはり最後まで犠牲しても捧げたいという人が少ないからでしょうか。
イエス様が十字架につけられたとき、わたしは何をしていたのかと問われたら、やはり逃げてしまって罪人だと言わざるを得ません。

イエス様は真の王

◼2014/4/17
◼ヨハン早稲田キリスト教会 モーニングチャペル
◼聖書箇所:マタイ27:27−44

★メッセージ

イエス様は兵士たちからユダヤ人の王だと侮辱されました。彼らが言ったことは事実です。イエス様は真の王です。しかし、彼らはイエス様を馬鹿にしてそう言ったのです。人間の口はどれほど汚れているでしょうか。あらゆる悪しきものが口から出てきます。どんなにひどい罪を犯して死刑判決を受けた者に対してもこんな不当なことはしません。全く何の罪をないイエス様が完全に人間性を否定され動物の獲物かのように扱われました。私たちはあまりにも軽々しい者ですが私たちの信仰を成長させてくださるように祈りましょう。主を裏切ることのないように、あらゆる執り成しの祈りをヨハン教会でもしています。
イエス様はゴルゴタの丘で大いに苦しまれました。私たちもイエス様の全き十字架の苦しみを味わいましょう。それは私たちの罪のためであります。ぶどう酒を飲むと少し痛みが和らぐものでしたがイエス様はそれさえを拒まれました。イエス様がもし十字架を降りてしまわれたら私たちが十字架につけられなければなりませんでした。そのためイエス様は十字架での苦しみを全うされました。

2014年4月16日水曜日

雰囲気ではなく真理で決断する

◼2014/4/16
◼ヨハン早稲田キリスト教会 モーニングチャペル
◼聖書箇所:マタイ27:11−26

★メッセージ

悪事は秘密に速やかに行われます。
主を証することも良いことも今やらなければいけません。会社で良い身分の立場にいながらそのときは証せずに退職してしばらく経ってから証する者がいますが、残念なことであります。学生でも社会人でも今やれることを行いましょう。
人々はイエスキリストではなくバラバを選びました。バラバは殺すべきだったのですが解放してしまいました。私たちの欲望や執着、自分の安全だけを願うことなど殺してしまうべきものを十字架につけましょう。
雰囲気ではなく真理で決断しましょう。バラバかイエスキリストか決断を迫られています。自分の発言や行動に気をつけて下さい。それが主を苦しめる自分の家族や周囲の人々を苦しめることのないようにして下さい。

2014年4月15日火曜日

イエス様の十字架も主の御手にある

◼2014/4/15
◼ヨハン早稲田キリスト教会 モーニングチャペル
◼聖書箇所:マタイ27:1−10

★メッセージ

イエス様を三度も知らないと否定したのは驚くべきことではありますが、同時に我々の姿でもあります。自らを過信してはいけません。26:35 ペトロはたとえ一緒に死ぬことになってもイエス様を知らないとは申しませんと告白しましたが、裏切ってしまいました。フィリピ4:13 私を強めて下さる方のおかげで私にはすべてが可能です。パウロがしたこの告白をするものになりましょう。パウロは優秀な者でありながら、自らの知識、富をちりあくたのように見なしました。
祭祀たちは最高法廷においてイエス様を一方的に罪に定めました。公開することなしに夜中に秘密裁判をしました。最も主に従うべき身分にある者たちが最も大きな罪を犯したのです。

マタイ27章はイエス様がピラトに引き渡される箇所です。
この世のすべては主の御手にあります。政府や権力者が自分たちの意思で何かをやっているように見えるかもしれませんが、実際にはすべては主が統治しておられます。イエス様はその主の御手の中で十字架への道を進まれます。人々が自分の意思でイエス様を十字架につけたように見えますが、実際は主のご計画でした。最近、若者の伝道においてはなかなか難しいですが、主が未来を担う若者たちをリバイバルさせてくださると信じます。
イスカリオテのユダは自分が期待したリーダー像とは異なり銀貨30枚でイエス様を売ってしまいました。ペトロもイエス様を否定してしまいましたが、あまりにも自分が情けなくて激しく泣きました。私たちにも恥ずかしくてどうしようもないこともありますが、そのとき取り返しのつかないことをしないで下さい。主はどのような罪を犯した者をも主に立ち返るならば赦されます。主への反逆者となるか主の弟子となるか、その差は紙一重であります。自分がやった行動はみじめでしょうがないかもしれませんが、そのために主イエス様が死んでくださったのです。このアメイジンググレイスをもって日々歩み、また人々に伝えましょう。

2014年4月14日月曜日

ペトロは主を三度否定した

◼2014/4/14
◼ヨハン早稲田キリスト教会 モーニングチャペル
◼聖書箇所:マタイ26:69−75

★メッセージ

ペトロがいた場所ですが、58節 ペトロは遠く離れてイエスに従っていました。イエスキリストが捕らえられ苦しんでいたにもかかわらず、ペトロは中庭にとどまり周囲の人々と変わらない者になってしまいました。今、私たちはどこにいるでしょうか?遠く離れているのなら悔い改める恵みがあるように祈ります。信仰のカラーを改めましょう。イエス様が冷たいところにいるのに私たちだけ暖かいところにいないでしょうか。
69節 一人の女中が近寄ってきて一対一で話しかけたのですがペトロは皆の前で「わからない」と打ち消しました。ペトロは勇気のない心で違うとも言わずわからないというあいまいな回答をしました。責任回避をするいい加減な行動です。私たちの生活でもあいまいにして他人に責任を押し付けていることはないでしょうか。4月は新しい環境でのスタートが多い時期ですので、初めから勇気を持ってクリスチャンの態度で臨みましょう。
72節 ペトロは「知らない」と誓って打ち消してしまいました。関係ないという言葉を使わないようにしましょう。74節 ついにペトロは呪いながら「知らない」と言ってしまいました。追い込まれたら降参すれば良いのですが、さらに嘘をついて深みにはまっていくことが私たちにはあります。
75節 ペトロは「鶏が鳴く前に三度わたしを知らないというだろう」というイエス様の言葉を思い出して激しく泣きました。ペトロは悔い改めて激しく泣いて再び主のもとに立ち返りました。一方でイスカリオテのユダは悔い改めることなく自殺してしまいました。私たちも罪を犯したら泣いて悔い改め主のもとに立ち返りましょう。主は受け入れて回復させてくださいます。

2014年4月13日日曜日

我らの罪のため、代わりに死なれたイエス様

◼2014/4/13
◼ヨハン早稲田キリスト教会 主日礼拝
◼タイトル:我らの罪のため、代わりに死なれたイエス様
◼聖書箇所:マタイ27:31−37、45−51

★メッセージ

主が与えられたメッセージです。聖霊によって働くクリスチャンになりなさい。また、タラントのたとえで、与えられたタラントをよく管理して増やして主に捧げなさい。また、山羊と羊のたとえです。
かつてエジプトの民が主の言葉を拒み悔い改めなかったため、モーセを通してエジプトで10の災いを起こされました。最後の災いは長子が死ぬ災いでした。主はイスラエルの民に家の入り口の二本の柱に子羊の血を塗りなさいと命じられその命令に従った家を過ぎ越されました。このようにして、人々は罪を動物の血によって贖う必要がありました。
イエスキリストは神でありながら人としてこの世に来られ、罪が何であるかさえ知らなかいほど罪がなく完全に清い身でありながら、すべての人類の罪を背負って十字架につけられ苦しまれました。イエスキリストの血は動物の血とは違い永遠に救いの効力が続きます。そして、この血によって贖われたことを永遠に記念して行うために聖餐式を行うようになりました。

聖書には用いられた者あるいは裁かれた者など様々な人物が登場します。
ペテロは12弟子の中でもトップレベルの弟子であり謙遜であり模範的でした。しかしこのペテロでさえも、イエス様がゲツセマネで祈るときに一緒に祈ることができず眠ってしまいました。また、イエスキリストが捕らえられたとき三度イエスキリストを否定しました。そのペテロをイエス様は復活後、再び呼んで愛してくださいます。わたしを愛するかと三度尋ねて信仰を確かめられます。
最後のほうではピラトの名前が多く出てきます。ピラトはイスラエル地方の全権を握っている総督であり、民たちはイエスキリストを罪に定める権限がありませんでしたので、ピラトに懇願します。
クリスチャンが亡くなったら天国に直行ですが、ノンクリスチャンが亡くなったら地獄に直行です。地獄は決して死ねないことであり永遠に裁かれます。律法は夢の中でも破ってはいけないほど厳しいものでした。イエスキリストの贖いなしでは誰もイエスキリストの御前に立つことができません。
キレネ人シモンはイエスキリストの十字架を代わりに背負うことになりましたが、その後、大いに祝福されました。
イエスキリストと共に十字架につけられた犯罪人のうちの一人はその場で救いを願い求め救われました。
イエスキリストの死後、アリマタヤのヨセフは死体を引き取り葬りました。

イエスキリストが死ぬ時残した財産は一つもありませんでした。着ていた服でさえもローマの兵士たちが奪い合いました。それでもイエスキリストは「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです。」と私たちの罪の赦しのためにとりなされました。
そして、イエスキリストは霊と魂と肉体のうえで完全に父なる神様から捨てられました。

2014年4月10日木曜日

イエスキリストの三つの愛

◼2014/4/10
◼ヨハン早稲田キリスト教会 モーニングチャペル
◼聖書箇所:マタイ26:26−35

★メッセージ

イエスキリストの愛はまず弟子たちにイエスキリストの愛を覚えさせることでした。聖餐式を行い自らの罪を徹底的に悔い改め主による贖いを思い起こさせます。イエス様は受難の直前に聖餐式を行い弟子たちに御言葉を守るように教えました。主は私たちのすべてをご存知ではありますが、私たちが積極的に祈りを捧げることを望んでおられます。主は覚えさせる愛を私たちに与えられました。
二つ目は仕えさせる愛です。イエスキリストの受難と復活を人々に伝えることです。多くの人々のために流されたイエスキリストの血潮を伝えます。これがぶどう酒でありパンです。
三つ目は先回りする愛です。32節 復活した後先にガリラヤに行く。主がペトロに離反を予告したのはペトロを罰したのではなく、一度は裏切るがその後罪を告白して主に立ち返ることを愛を持って伝えたかったのです。主は私たちのどんな失敗も受け入れてくださいます。

2014年4月8日火曜日

何も証がないならば祈っていないことと同じ

◼2014/4/8
◼ヨハン早稲田キリスト教会 モーニングチャペル
◼聖書箇所:マタイ26:1−16

★メッセージ

砂の上の城のような水が流れたら全て流されてしまうような信仰ではなく岩の上に建てた堅固な信仰となりましょう。律法学者たちは聖書をどんなに学んでいても全くイエスキリストを知りませんでした。信仰を持っているようでいてもイスカリオテのユダのように一瞬で崩れてしまいます。そうならないように、悔い改める恵みがあるように祈ります。
4節 計略を用いてイエスを捕らえ殺そうとした。登場、70人くらいの人々が集まって話し合いましたが、誰一人も反対を唱える者がいませんでした。日本では悪いこととわかっていても意見を出さず声の大きい人が言ったらそれに従ってしまうことが多くあります。クリスチャンは何が正しいか知って声をあげなければいけません。
毎日祈っていても一つも実現せず何も証がないならば祈っていないことと同じかもしれません。主は必ず働いて下さると信じましょう。主の計画は着実に進んでいます。人間の策略によって一度も止まったことがありません。
女性が捧げた香油は当時貴重であり外国から輸入したものでした。イエス様は自分が十字架につけられると言われて女性が葬式に備えるために香油をかけたにもかかわらず、弟子たちはもったいないと愚かなことを言いました。どんなに毎日聞いていても何もわかっておらず変わっていないことは残念なことです。
13節 イエス様が仰ったようにこの女性の話は聖書に3回登場し、幅広く伝えられました。

2014年4月6日日曜日

ヨハン教会に導かれて

ここ最近はテレビを見る暇もないほどの忙しい毎日ですが、ふと立ち止まって振り返ってみると、自分がヨハン教会に導かれて洗礼を受けてから、ちょうど12年間が経過していました。
私が初めて東京のヨハン教会に来たのは約14年前でしたが、その頃は聖殿が移ったばかりで内装工事中であり、パイプや壁がむき出しになっている中で礼拝をしていたのを覚えています。当時は教会のことはあまりわかりませんでしたが、数個の教会が開拓されていたというところでしょうか。
それからしばらくして私は主を信じ受け入れ洗礼を受け、この教会に通うことになりました。それからは毎年のように教会が開拓されてどんどん増えていき、何かすごい勢いを感じていました。毎年、ヨハンと名のつく教会が建てられるたびに、その場所と順番を覚えて祈っていましたが、最近は数がさらに多くなってついに覚えるのが難しくなってしまいました。自分の年が増して記憶力が鈍くなり覚えられなくなったということもありますが、簡単には覚えられないほど、教会が建っていくことは、ものすごい恵みだと思います。
現在はヨハン教会連合として約50近い教会が全国に開拓され、たくさんの主の僕が各教会に派遣されていることは、驚きと共に大きな主の恵みを感じさせるものであります。

私が教会に導かれて以来、共感していたヨハン教会のビジョンとして、「今日の日本宣教、明日の世界宣教」というものがあります。今日、確実にこの日本で福音を伝え、明日には世界に伝えていく、そういう大胆で力強いビジョンは、今の日本人にとって必要なものではないかと自分がクリスチャンになる前から感じていました。ただ大っぴらに夢を語って途方もないことをしようとするのではなく、確実に足場を固めていき、次に向かっていくことは、混迷極めるこの時代ではますます重要になっていくのでしょう。ヨハン教会での信仰生活を送って、はや12年、まだまだ中途ではありますが、今までの恵みを思い起こしながら、さらにもっと素晴らしい主の恵みを体験していきたいものであります。


四旬節説教(4)メシアとしてのイエス・キリストとペトロ

◼2014/4/6
◼ヨハン早稲田キリスト教会 主日礼拝
◼タイトル:メシアとしてのイエス・キリストとペトロ
        四旬節説教(4)
◼聖書箇所:マタイ26:31−41、69−75

★メッセージ

ペトロの代わりに自分の名前を当てはめて聖書の箇所を読んでみて下さい。
フィリピ2:6 キリストは神の子の身分に固執せず人間として来られ、死に至るまで従順でした。ゲツセマネでの最後の夜の祈りでは汗が血に変わるほど祈られました。さらにその後、もっとひどい苦しみを受けます。悪口を浴びせられ十字架につけられ苦難を受けました。十字架刑は歴史的にも最も残酷な刑罰です。
ペトロは単純で影響を受けやすい人物ですが行動派で思ったことをすぐに行動に移すタイプでした。主イエスキリストはこのペトロの姿を評価されました。
イエスキリストが弟子たちの足を洗って人に仕える姿勢を教えたに関わらず弟子たちは誰が偉いか議論していました。人間の罪性は簡単には変わりません。徹底的に悔い改め十字架に釘付けられなければなりません。

今の体は復活の体ではありませんので努力しても罪を犯すことがあります。そのため誘惑に打ち勝つように様々な戒めを与えています。
主を愛する者は御言葉を読むことと祈ることが好きになります。祈ることが好きになるようにしましょう。
正しい人の祈りは力があります。執り成し祈りを積極的にしましょう。第一ヨハネ5:14 何事でも神に願うなら聞きいれて下さいます。祈りは答えられるためにします。社会的に低く見られている人でも祈りに励む人は主が高めて下さいます。最後のときには皆が信仰と愛が冷え込みやすいですが、そのときにも信仰を最後まで保つ者が救われます。
ローマ8:26 万事を益として下さいます。ペトロが主を否定したとき、一度目は普通に知らないと、二度目は誓って知らないと、三度目は呪いながら知らないといいました。ペトロは夜明けに鶏が鳴くたびに非常に心が痛くて泣きながら祈ったそうです。聖霊降臨で回復されたペトロはリーダーとして他の信徒たちを導きます。
イスカリオテのユダは悔いることをしましたが改めずに自殺してしまいました。悔い改める者が天国に行くことができます。そのような者が再び主にダイナミックに用いられます。ヨハン教会でも、ペトロが回復されたように私たちも回復されるように祈り信じましょう。

2014年4月5日土曜日

競技者としての信仰生活

◼2014/4/5
◼ヨハン早稲田キリスト教会 土曜礼拝
◼聖書箇所:一コリント9:24−27

★メッセージ

星はそれぞれ輝きが違います。肉眼で見えるものがあれば望遠鏡で見ないと見えないものもあります。それと同じように天の国における輝きは皆違います。24節 皆競技に参加しますが賞を受けるのは一人だけです。マラソン競技では何万人もの多くの人々が参加します。市民たちはお金を払って参加し優勝が目的でなくむしろ参加することが目的です。一方で、最前列にいる競技者たちはプロとして優勝するために走ります。優勝でなくとも入賞を狙います。何万人の中でわずかな者が入賞します。
クリスチャンは競技者として信仰的な目標を持たなければいけません。一つは人格的な目標です。弟子訓練はその人が内面的に人格的に備えられていくことです。昨年の私より成長が見られなければいけません。信仰的な自己満足に陥ってはいけません。beingではなくdoingにつながる必要があります。フィリピ 2:6 キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず  キリストは自分の神の子としての姿に固執せずに、受肉して人間の姿で現れ、へりくだって死に至るまで従順になりました。
あなたがたは教会だけでなくこの世の光と塩です。自分の今の地位や環境に満足せずに使命感を持って目標を目指していきましょう。
一つのジョークがあります。ある牧師は会堂でメッセージをしていますが、信徒たちは眠ってしまって祈ることをしませんでした。一方で、信仰はいい加減で運転が乱暴なタクシー運転手はひどい運転をするので、乗車した客は安全を祈らざるにはいられませんでした。牧師よりもタクシー運転手のほうが信徒たちを祈らせたので報いが大きいでしょうか。実際に天の国において誰が評価されるかわかりません。
現代では狂わなければ最前線に立つことはできないとも言われています。コカコーラを創業した者は私の血にはコカコーラが流れているとさえ言っています。使徒パウロのように伝道に狂わなければ宣教を成し遂げることはできません。聖書の中では能力が足りなくて叱られた者は一人もいません。叱られたとしたらやらなくて叱られました。doingの姿勢で主に捧げ喜ばれるものになりましょう。

2014年4月3日木曜日

忠実で賢い僕

◼2014/4/3
◼ヨハン早稲田キリスト教会 BibleStudy
◼タイトル:忠実で賢い僕
◼聖書箇所:マタイ24:45−51

★メッセージ

十字架には二つの苦しさがあります。罪を負う痛さと恥ずかしさです。

賢い僕はギリシャ語ではオイコイモス、忠実な管理人という意味です。問題は油断したときに起こりますので、常に忠実である必要があります。たとえいつもよくやっていたとしても一回堕落して罪を犯すならば暴かれます。
人の幸いは主が決めるものです。サムエル15:22 主が喜ばれるのはいけにえでなく主の御声に聞き従うことである。すべては主が決められます。しかし、サウルはいつも自分の考えを捨てられず神様に逆らっていました。
悪い僕とは、方法論的なところばかり長けていて人のスケジュールを把握したりコツをつかんだりして良く立ち回りますが、主人が見ていないときにはいい加減にする者です。任せられた働きをせず自分勝手に行う者です。良い僕は主人がいつ帰ってくるかなど気にせず、忠実に働きを行います。善には鋭く悪には疎くあれ。主は悪い僕を必ずや徹底的に罰します。

マタイ16章~24章:主の教え

◼2014/4/3
◼ヨハン早稲田キリスト教会 木曜礼拝
◼聖書箇所:マタイ24:32−24

★メッセージ

人間の肉体が死ぬならばクリスチャンは霊魂が天国に直行します。途中でこの世をさまようことはありません。一方で主を信じない人が死ぬならば地獄に直行します。悔い改める余地はありません。
サタンはキリストを信じている人を最後まで騙し罪に陥らせようとしますが、主に本当につながっている人は騙されることはありません。
ヨハン教会の皆さんは主イエス様の血潮を受けましたか?これに確信を持ちましょう。主イエスキリストの血潮の力が私たちを完全に清めて下さいます。ただ、ときに罪を犯すかもしれません。それゆえ、コリント二5:17にあるように、日々新たに創造して下さいます。自分で努力して聖書を知り尽くし信じたのではありません。ただ聖霊様の恵みによるのです。

33節 人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。主イエスキリストが天の国の戸口に近づいています。すなわち再臨の時が近づいています。この世で受肉したイエスキリストは十字架につけられ弱々しい姿でしたが、天の国におられるイエスキリストは、目が燃え勇ましい姿です。このイエスキリストが再臨されるとき、ノンクリスチャンはどうしようもない絶望感で泣き崩れますが、クリスチャンは感動の涙であふれます。

マタイ16:21からイエスキリストはご自分の十字架の受難と復活について本格的に予言され始めます。マタイ16:16 ペトロはイエスキリストに対して「あなたはメシア、行ける神の子です。」と信仰を告白しました。このように信仰告白したものに天の国の秘密を解き明かされます。
マタイ17:22 主が人々に引き渡されようとしている。マタイ20:17で十字架での死と復活を予告します。
地上では天の国のもう一つのモデルが家庭です。主は決して離婚してはいけないと仰っています。家庭は不思議な神秘感があふれるところであり、長年結婚生活をしたとしてもすべてを知ることはできません。19章は家庭を大切にしなさいというメッセージです。12節までが夫婦、13節からは子供について、16節からはお金で豊かになるのではないことを教えています。20章では、ぶどう園に労働者が必要なように教会では働き人が必要なことを説いています。どんな人でも主が働き人として用いられます。我々の体が神殿です。21:33でもう一度ぶどう園のたとえが出てきます。22章の婚宴はぶどう園のたとえとつながっており、天の国での喜びを表現します。聖霊様が人を監視して何かいつも叱ることばかりすることはありません。聖霊様は慰め主、癒し主、清め主です。
22章では律法学者たちがイエス様を試すために学者が様々な質問をしますが、イエス様はすべて的確に答えられます。23:13 偽善者は不幸だ。23:16 ものの見えない案内人、あなたたちは不幸だ。信仰を持っている者が偽善者になりえますので注意が必要です。24:40 一人は連れていかれ一人は残される。連れていかれるのが自称クリスチャンとは限りません。これは怖いことであり常に悔い改めて信仰を新たにする必要があります。24:45 僕はデュロス、所有権のない者を意味します。使用人はオイコイモス、管理人であり、執事のような者で主人のものを持って管理します。使用人として任せたが僕のような意識を持って所有権を主張しなかったものです。

16章から24章まで通してみましたが、まとめますと、第一に僕のように主に忠実に仕えなさい。第二に仕事、家庭において忠実に行いなさい。そうすれば思わぬほどの喜びがやってきます。

2014年4月1日火曜日

ユビキタス

◼2014/4/1
◼ヨハン早稲田キリスト教会 モーニングチャペル
◼聖書箇所:コリントニ 4:1−11

★メッセージ

現代では新聞やニュースもみると様々な大変な事件が起きています。たとえばロシアのクリミア半島問題、マレーシアの喪失した航空機。今まで確立した論理や手順が全く意味をなさなくなる時代であるともいえます。イエス様は、最後の日が近づけば近づくほど不法がはびこると言われました。互いに告発し合い愛がなくなると言われました。
知識が交通のようにあふれると預言されました。インターネット技術の発展によりあらゆる情報にアクセスできます。ユビキタスとはもともと神様の言葉で、あらゆるところに存在しうるということです。
38年間癒されなかった病人をイエス様は癒されました。ただ癒してくださいと言うだけで癒されました。一つの条件がありました。もう罪を犯してはならないと命じられました。
イエス様に仕える僕だけでなく人に仕える僕だとパウロは言っています。教職者は信徒たちに仕えます。パウロはイエス様に仕えるゆえにあなたがたに仕えるようになったと言っています。
16節 たとえ私たちの外なる人々が衰えるとしても内なる人は日々新たにされます。7節 私たちは土の器です。割れやすいですが、ここに納められた宝は神の国は偉大な力を持っています。これは人間の力でなく聖霊の力です。